「今読んでるこの本なんだけどさ、多分君の感性に合うと思うんだよね。おすすめだよ」
「そうですか、ちょっと目次見せてください・・・これは確かに刺さりそうですね」
「だろー、多分ピッタリだよ。作者の思想はかなり片側に寄ってるけど、だからこそ面白いよ」
「それにしても、こういう本も読むんですね。この作者の思想とは意見が全然合わないんじゃないです?」
「え、そりゃそうだ。だから読むんじゃないか。僕が君の意見を聞きたがるのと同じだよ」
「普段話してても先輩と僕はまったく意見合わないじゃないですか」
「だから聞きたいんじゃないか」
人はそれぞれに様々な意見や見解を持っているものですが、世の中に存在する意見には大雑把に分類して2つのものがあります。
それは自分が同意できる意見と、同意できない意見です。
何を言っているんだ当たり前じゃないか、と思われるかもしれませんが、この違いは存外無視できない大きなものです。
相手の意見を聞く難しさ
先日の記事でも述べたように、人が話し合いをするためには相手の意見を聞くことが不可欠です。話し合いという通り双方向で言葉を交わすことが必要であり、互いに聞く耳を持たず持論を押し付け合うのは話し合いと呼べる代物ではありません。
しかし相手の話を聞くというのは意外と難しいことです。
日常生活やビジネスに関する話題であれば黙って聞いていることもまだ容易いものですが、信念や理念、イデオロギーの絡む事柄について話し合う時はどうしても異なる価値観の意見を聞くことが難しくなりがちでしょう。
信念や理念、イデオロギーは積み木のようなものです。これらは人生で今まで学び経験してきた全てのものが積み重なって形を成すものであり、それを無視したり打ち崩すということは大げさではありますが自己の存在をも否定するようなものです。
頭が良く、真面目で、よく勉強する人ほどイデオロギーを手放すのは困難でしょう。他者に比べてしっかりと積み重ねてきた自負と自信、そして実際に積み上げてきた実績が存在するのですから。
ディベートのように
しかし、だからこそイデオロギーはどうしても妥協が許されず衝突しがちになります。イデオロギーの絡む事柄について話し合いを成立させるのは容易ではありません。
よってこのようなイデオロギーの関わる事柄について話し合いをするためには訓練が必須です。
感覚としてはディベートがもっとも近いものでしょう。
ディベートとはある主題に対して自身の信念やイデオロギーとは無関係に異なる立場へ立って議論を行うことです。
例えば「日本人は米食を止めてパン食に変えるべきかどうか」という主題に対して肯定派に配属されたのであれば、たとえどれだけパンが嫌いでも「日本人はパンを食べなければならない」もしくは「日本人は米食を止めなければならない」理由を考えて発表するのがディベートです。
この時に必要となるのがある特定の意見に対する虚心坦懐な理解であり、学ぶべきは自らの理念を一度隅に寄せておく感覚です。ディベートでは否応なしに自らのイデオロギーを手放す感覚を学ぶことができます。
若いうちにこそ意味がある
これは実のところ若いうちにしか訓練することができません。歳を取るとどうにもならなくなります。加齢が悪いとかそういう話ではなく、単純に若者と比べて「人生の経験知」を膨大に保有しており、そちらのほうが個人にとっては大きな意味を持つからです。
積み木で例えれば、歳を取ると大きなお城のように積み重なっており、その積み木を一度隅に寄せておくのはもう無理、ということです。若いうちはまだ小さな家くらいですので簡単に寄せておくことができます。
極論を言いますが、個人の人生における意味のあるものとは、まさにこの積み重ねてきた積み木そのものです。自らの学び経験してきた、自らにしか価値の無いこの積み木こそが人生の集大成であり、しかしだからこそ自らにとって絶対的な価値を持っています。
この積み木を積み重ねることこそが人生の一つの目的であり、人それぞれ大切にすべきものです。
だからこそ、イデオロギーを一時的に手放すというのは若いうちにしか出来ませんし、若いうちにしか意味が無いとも言えます。
自分が同意できる意見だけを集めるということは、同じ形の積み木を集めるようなものです。それは確かに積み上げやすいかもしれませんが、それで出来上がるのは同じような形のお城だけです。もっと自分らしいお城を作るには別の形の積み木が必要であり、それは自分が同意できない意見の中に存在しています。
だからこそ、若者には出来る限り異なる意見に触れる機会を増やしてもらいたいものです。より色々な形を作ることができる様々な可能性を持った積み木がそこらかしこに転がっていることに気付いて欲しいのです。
ただそれだけの、まあお節介です。