安易な気持ちで触れ難い、正解の無い難しい問題。
差別と区別の違い
社会通念上で区別と差別は異なるものとされており、区別は必要なことで差別は悪いことだと認識されています。
区別と差別の定義は難しいものの、区別とは『物事の客観的な違いを認識して扱うこと』であり、差別とは『非合理的な価値観や不公平な方法で一方を不当に扱うこと』です。とてもシニカルな表現となってしまいますが、区別とは『合理的で公平で正当な許容されている差別』の言い換えだと言えます。
例えば肉体労働において若者と高齢者を別々に扱うのは身体的合理性に基づいており区別とされますし、医療費負担が異なるのも収入の差に基づいた公平性から区別とされます。対して言論や単純労働など年齢によって区分することが公平ではない分野において若者と高齢者で扱いを変えることは差別です。
この区別と差別の峻別が難しいのは合理性や公平性の基準が時代や集団によって変わるためです。
現代日本の私たちの感覚からすれば、親が自分の子どもに与えるものを余所様の子どもに与えなかったとしてもそれは合理的な区別であり差別とは見なさないでしょう。しかし余所様の子どもを邪険に扱うことは不公平であり不当な差別だと認識されます。我が子を大切に扱うことと他人の子を傷つけることは同軸にはありません。
これが大躍進期の中国やクメール・ルージュ時代のカンボジアであれば、そもそも自分の子どもを特別視すること自体が差別に当たります。子どもは人民公社や集団農場に所属するものであり、親や家族の血縁によって扱いを変えるのは不当だとされるためです。
これは相当に極端な例示ではありますが、合理性や公平性が時代を超越した概念ではない以上それが許容されるかどうかは社会集団のその時点での許容幅によって変わります。
もっと分かりやすい事例で言えば、レディーファーストはエチケットであり正当な男女の区別だと考える保守的な社会もあれば、合理的な理由もなく男女の役割を求めている慈悲的差別だとするリベラルな社会もあります。そのどちらが正しいかを安易に評価することはできません。
当時の科学的合理性に基づけば過去の人種差別は正当な区別でした。そしてもちろん現代の私たちからすれば非合理的で不当な差別です。
家族や恋人を他の人よりも優先的に扱うことは合理性や公平性の観点からすれば差別に該当しかねませんが、それは不当とは見なされず区別として社会集団に許容されている振る舞いです。
合理的な理由があればいいのかと言えば、それは統計的差別を許容することになります。公平性があればいいのかと言えば、それは慈悲的差別を許容することになります。これらを区別とするか差別とするかは常に議論の対象です。
曖昧だからこそ慎重かつ謙虚に
ここで述べたいのは区別と差別の峻別は曖昧だといった当たり前の話ではなく、その曖昧さへの認識の強化です。
私たちが現在妥当だと考えている区別は将来的に差別となるのではないか、あるいは私たちが差別だと考えていることは実は合理性のある区別なのではないか、そういった不確実さに対して謙虚な姿勢を持つ必要があり、それを認識する必要があります。
「それは区別だ」と肯定する時、「それは差別だ」と否定する時、その曖昧さに心を馳せて絶対視することをこそ避けて、批判的思考を保ちつつも批難や誹謗中傷を抑えること、慎重に議論の場を構築して許容幅の調整を行い、まだ私たちの知らない見識への謙虚な姿勢をもって決断すること、区別と差別の峻別はそういった姿勢が必要な領域です。
そのような慎重さを謙虚さを損ねた時、曖昧な区別と差別の差を独善的に絶対視して自らの決断を疑わなくなった時、区別と差別の断定的な峻別こそが非合理的で不公平で不当な差別に陥ることを留意しなければなりません。
結言
区別と差別は常にその境界線が議論の対象となるものであり、断定的に取り扱ってよいものではないと考えます。
もちろん「それは差別だ」とする指摘者は社会に必要な視点をもたらす有益な存在です。ただ、その僅か一部には区別と差別の峻別を恣意的に運用する「真の意味での差別主義者」が紛れ込んでいます。やはりなんとも難しい問題です。