忘れん坊の外部記憶域

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ネットはカルトや陰謀論が花開きやすい

 近現代ではカルトや陰謀論が社会的な問題として取り扱われることが多くなっています。これは世界中にネットワークが張り巡らされたことによってより顕著な声になったと言えるかもしれません。さらに言えば害悪論の一種として「ネットがカルトや陰謀論を生み出している」と批判されることもありますが、人の思考はネットの有無では変わりませんので、カルトや陰謀論はネットが無くとも生まれることなんて人類の歴史を見れば明白です。

 

 ただ、指摘が一部正鵠を射ている点もあります。ネットはカルトや陰謀論が育ちやすい環境です。芽の数は変わらずとも水や栄養が豊富でカルトや陰謀論が生育しやすい環境であり、それゆえに数多のカルトや陰謀論が萌芽しています。

 その理屈について整理していきましょう。

 

教義(ドグマ)の絶対視

 カルトや陰謀論の厳密な定義は難しくありますが、今回は俗的に「真実だと確信できる何かしらを盲目的に信じる人々」を話の主題とします。あるいは教義(ドグマ)を得た人と言ってもいいでしょう。

 教義を得た人にとって教義は絶対的に善で正しい存在です。否定されることのない純然たる善だと確信できるからこそ教義になり得るのであり、そこに疑問や疑念、反論や反証を差し挟むことは原理的にできなくなります。

 とはいえここまでは一般的な普通の人々でも到達し得る地点でもあります。不安定で複雑で不明瞭な世の中を生きていくために人には何かしらの寄って立つところが必要であり、それを他者や集団に依存するか、能力や学問に依存するか、信念やドグマに依存するかなどが人それぞれ異なるだけです。

 ただし依存の度合いは人それぞれであり、「それがあればいい」程度の人もいれば「それが無くては生きていけない」程度の人もいます。

 この程度の差は依存先の量によって変わります。複数の依存経路を持っている人は一つに固執せずともなんとでもなるため個別への依存度は低くなります。反対に依存先が少ない人は依存先への依存度が著しく高まります。依存先が一つしか無ければもはやそれを否定されることは耐え難い苦痛を生むほどに依存度が高まることでしょう。

 

 教義を得た人とは依存先の量が少ない人です。本人にとって教義が絶対的に善で正しい存在と認識されるのは依存先が他に無く教義の否定が認められなくなるからであり、合理的原理的な理屈を積み重ねて教義に辿り着くのではなくその否定を許容できないために後から正しさを積み上げるものが教義です。

 だからこそ外部から見れば矛盾に満ちている教義だとしても本人からすれば絶対的な正しさを持っています。「こうだから正しい」ではなく「正しいから正しい」状態です。

 

外圧がカルトや陰謀論にハマる人を生み出す

 そのようにして教義を得た人に対して「お前は間違っている」「お前はおかしい」と教義や個人を否定する言葉は禁句です。その言葉は僅かばかり残っていた一般社会との依存関係を切断して教義へさらに熱中させる燃料や肥料にしかなりません。

 日本であればオウムが典型的な事例として理解しやすいでしょう。教義を持った人々が過激化するのはその教義を持った段階ではなく、一般社会から拒絶された後です。本人たちにとって絶対善の教義を否定されたからこそ教義を否定してきた一般社会を悪だと敵視するようになります。外部からの圧力こそが教義に依存してカルトや陰謀論にハマる狂信者を生み出す「最後の一押し」だと断言してもいいでしょう。

 

 教義を得た人に対して本当に必要な対処方法は依存先を増やすこと、つまり社会や他人がそういった人々を受け入れて教義へ依存しなくても済むようにすることです。

 それは社会が教義を受け入れろという意味ではなく、教義へ依存せざるを得なかった個人を受け入れることです。依存度を低減させることで初めて教義を手放させることができます。

 私たちは彼らの教義を受け入れられないからこそ、教義を否定するのではなく教義を手放せるように別の様々な依存先を提供する必要があります。もちろんそれは難しいことであり、だからこそ脱洗脳は素人が手を出すべきではなく専門家に頼るべき分野ではありますが。

 

 以上のような理屈から、教義を得た人に対して必要なのは教義の否定ではなく個人のケアです。教義に依存せざるを得ない環境こそを変えなければなりません。

 しかし困ったことにネットは教義を否定する声が大きく可視化されます。

 誤った見識やおかしな言論に対して「それは間違えている」と正面から否定することは言論の場であればたしかに適切な姿勢でしょうが、教義に対する姿勢としては取るべきでないものです。

 教義を得た人は「正しいから正しい」と確信している以上、それを否定してくる人は『誤っているところを教えてくれる親切な人』ではなく『教義を否定してくる敵』です。「敵であれば滅ぼさねばならない」とカルトや陰謀論が過激化する道筋を作ってしまっているようなものです。

 ネットはコミュニケーションの敷居が低い利点がある反面、他者の教義を否定することが容易にできてしまいます。面と向かっては言いにくい「それは間違えている」もネットであれば簡単に言えます。

 その間違いの周知自体は第三者に有益なため必要なことではありますが、しかしその副作用として教義を得た人が教義へさらに熱中することへの手助けをしてしまっている点が問題であり、これがネットではカルトや陰謀論が花開きやすくなっている理由です。

 

結言

 「ネットのせいでカルトや陰謀論が生まれる」は言い過ぎですが「ネットのせいでカルトや陰謀論が育ちやすい」は事実だと言えるでしょう。従来まではマスメディアや口コミによって生育されてきたカルトや陰謀論の芽が、ネットでは一般人でも簡単に肥料を与えることができるようになった結果です。ネットは教義の否定に終始した声が大きく目立ち、しかしそれは教義へ熱中する過激な人々を増加させてしまう悪手です。

 これについては適切な対処法が存在しておらず、例えばフェイクニュースに対するファクトチェックなどでは構造的に対処できない問題です。ファクトを突き付ければ突き付けるほど教義への没頭は進んでいきます。

 

 もっと簡潔なまとめ方をすれば、ネットでよく見かける「私はこう思っている」「それは間違えている」から始まる論戦は、場合によっては『そうだと思っている主張』ではなく『そうだと信じている教義』の場合があり、そこを掛け違えて話が進むことは不幸な結果になりかねません。

 現時点では特効薬がなく、まだまだ方策の社会的模索が必要な問題です。