忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

主張をするのであれば、権威に語らせるのではなく自分の言葉で語ること

 「稲森和夫が言うには・・・」

 「ドラッカー曰く・・・」

 「フリードマンの本によれば・・・」

 このように、何らかの主張をする際に偉大な先駆者の言葉や結論をそのまま流用して語る人がいます。特にビジネスの分野で見かけることが多く、一部のライターや記事はこれだけで文章を進める場合すらあります。

 先人の言葉を紹介することが主題であれば何もおかしくはないのですが、「これはこうすべきだ」という自らの主張の開示においてこういった流用のみでの言説がなされていると、個人的にどうにも違和感を覚えてしまいます。

 

 理工系では解釈によってロジックが変わる一部の分野を除き、こういった言い回しは考えにくいものです。例えば「熱力学を代表するケルビン卿によれば、エントロピーは増大する」というような言い回しはまず使われません。トムソンさんが言おうが、クラウジウスさんが言おうが、カラテオドリさんが言おうが、熱力学第二法則に従ってエントロピーは増大するのですから、『誰が言ったか』はさほど重要ではない情報です。

 他にもジャーナリストが意見(オピニオン)を述べる場、例えば新聞の社説などですが、そこでは誰かの意見を援用した場合でもその後に必ず記者自身の見解が述べられます。他人の意見を流用しっぱなしということはまずありえません。

 

権威を援用するか、権威を笠に着るか

 学問的知見は巨人の肩の上であり、偉大な先駆者の言を用いることはまったく悪いことではありません。

 ただ、それは先駆者の言を援用する場合に限ります。

 すなわち自己の主張の助けとして引用する場合に限り意味がある行為であり、「誰がこう言っていたように、これこれこうであり、だから私はこう考える」といった定型の前置詞、自己の主張の支えとして用いられる場合のみです。

 「私はこう考える」も無しに「誰々さんがこう言っていました」と言うだけであればそれは伝言や伝聞と変わりなく、辛辣な言い方ではありますが盗用にすらなりかねません。少なくとも援用とは呼べず偉大な先駆者の権威を笠に着ていることと同義です。

 それはあまり褒められた行いではないでしょうし、少なくとも自己の主張として発信することではありません。それこそ『誰が言ったか』が重要ではないように、その流用をする発信者が『その発信者』である必要がないのですから。

 

主張の展開、ロジックの開示は教科書ではない

 なぜこのような文章構成が特にビジネス界隈で蔓延っているのか不思議に思っています。

 もちろん偉大な先人の権威を笠に着て商売をしている人が居るのは事実でしょうが、そうでもない商売っ気が無いところでもこのような「権威に語らせる」言説を度々見かけます。

 

 論拠の無い推測ですが、このような文章構成・論理構成は学校による刷り込みが残っているのではないかと考えています。つまりこういった文章構成を行う人が参考にしているのは学校の教科書なのかもしれません。

 「これは誰々が作りました」「これは誰々が見つけました」「これは誰々が考えました」というように、学校の教科書は歴史的な事実関係を学ぶためほとんどの科目においてその知見の発見者を同時に教育します。

 「誰々がこう言っていました」という文章はこれと同様であり、とても教科書的です。しかしこれは編纂者の目的である教育に沿った文章であり、少なくとも自己の主張を発信する際に用いられるべきストラクチャーではないと考えます。教科書の文体は学びのためのものであり、発信の為ではありません。

 

 なぜ教科書的な文章を書くのかは、例えば多様な書籍や多彩な文体に触れていない勉強不足などが原因かもしれませんが、それは個々で異なる理由があるでしょう。

 ただ、自己の主張をするのであれば、権威に語らせるのではなく、たとえ拙くとも自分の言葉で述べることが重要ではないでしょうか。

 

結言

 曲がりなりにも自己の見解を主張したいのであれば、先人の言に頼り切るのではなく自分の言葉で伝える努力が必要です。重要なのは巨人の肩の上に立ち、そしてその上に自らの考えを積みあげること、それでこそ傾聴する価値が生まれます。

 キュレーションが無価値だとまでは言いませんが、先人の言を流用だけではただの転載であり、盗用になりかねないことを注意する必要があります。少なくともそれは自己の主張と呼称されるべきものではありません。

 

 

余談

 「と、〇〇〇が言っていました」

というオチを考えていましたが、良い感じの名言が見つからなかったので諦めます。