「科学技術は著しく発展しているが、人々の精神の発展は遅れている。人類は過去から変わらず野蛮で愚かだ」とした言説を時々見かけます。特に世界のどこかで戦争が勃発すると散見するようになります。
そう言いたくなる気持ちも分かりますが、実際はそうとも言えない側面もあるかと思います。
今回は人類の野蛮を軸に、人々の価値観の違いを考察してみましょう。
精神の発展が遅れているのは事実か
様々な分野の学者が提示しているように、家庭内から国家間に至るまであらゆる暴力が統計的に見て減少しています。一例として過去数百年を紐解いて作成された統計を見ると、紛争や殺人の件数は減少し、健康寿命やアクセスできる資源は増加しています。それらは学術的な研究以外にも例えばハンス・ロスリングの『ファクトフルネス』やスティーブン・ピンカーの『暴力の人類史』などで分かりやすく提示されている定量的な事実です。
よって長いレンジで世界を見ると人類の野蛮は抑圧される方向に進歩していると言っていいはずです。過去と比べれば個人が平和に生きて天寿を迎えることができる可能性ははるかに高く、現代の人々は最も平和な時代に生きていると言っても過言ではないかと思います。
有史以来、人類が野蛮を少しずつ遠ざけてきたこと。
それは精神の進化ではなく技術やシステムの進歩によるものだと主張することも可能かもしれませんが、とはいえその技術やシステムを作ったのはやはり人類であり、人々が野蛮から解放されようと志向した結果であることは否定できないはずです。
悲観と楽観、理想と現実、定性と定量、実感と数値
ただ、野蛮が減少していることを素晴らしいと考える楽観的な現実主義者と、まだ野蛮が世界に残っていると考える悲観的な理想主義者が相容れることはないでしょう。
コップに半分残った水を見て「まだ半分もある」と考えるか「もう半分しかない」と考えるかは価値観の違いで、この差異が生じる原因は脳の遺伝的な要素が強く、それを善悪や正否で峻別することはできません。
私は楽観的な現実主義者に寄った考えであり、定量的に見て人類の暴力性は抑圧されている傾向にあるのは良いことだと考えます。
しかし「指数治安のみが重要で体感治安は無視しても良い」とまで極端な考えは適切ではないように、定性的かつ実感的に物事を捉えること、『人類の野蛮性が低減している実感』を求める悲観的な理想主義も世界には必要な考え方です。
実感の限界
しかしながら、悲観的な考え方自体を否定するつもりはありませんが、定量的な数値を『実感』することは極めて難しくあります。
人類の歴史全般を取り扱う統計は100年や1000年のレンジで物事を扱いますが、それに対して人類の寿命は長くとも100年程度です。さらに感覚の記憶はそれよりもさらに短いため、人々が物事を『実感的に』取り扱えるのはせいぜいが数十年、短ければ数年の範囲に限られます。
よってたとえ人類の野蛮が有史以来ずっと減少傾向にあることが数値的事実だとしても、それを『実感的に』感じることはできません。
また、前述したように精神の進化ではなく技術やシステムの進歩によって野蛮を抑圧していると考えた場合でも、精神はミクロで実感的に取り扱える領域であるのに対してマクロな技術やシステムの進歩は私たちの感覚器では『実感』することができません。
そのため、実感的に物事を取り扱うことは否定できないものの、それは必ずしも絶対的なものではなくむしろ限界があることに留意が必要だと考えます。
結言
悲観と楽観。理想と現実。定性と定量。実感と数値。
度々となりますが、これらは決して善悪で峻別する違いではありません。
定性的な実感を重んじて悲観的な理想主義者となることも、定量的な数値を重んじて楽観的な現実主義者となることも、個人の性質と価値観である以上否定されるものではありません。それらは個性の差であり、どちらも世界に必要な発想です。
余談
先日、著名なソフトウェアエンジニアのマーク・アンドリーセンが技術楽観主義宣言(Techno-Optimist Manifesto)を発信して各所で賛否両論を巻き起こしていました。
私は楽観的な技術屋なので、全面同意まではしないもののマーク・アンドリーセンやノア・スミスが述べるような技術楽観主義に賛同しています。過去と比べれば世界は良くなっていますし、技術によってより良くできると信じます。
◆The Techno-Optimist Manifesto | Andreessen Horowitz
◆Thoughts on techno-optimism - by Noah Smith - Noahpinion
ただ、だからといって悲観的な見解を否定するつもりはありません。それは楽観主義のアクセルによる冒進を防ぐブレーキとして機能するものであり、両方が世界に必要だと考えるためです。