社会学者は視野が広いので社会の健全性を心配するが、私は視野が狭いので個人を心配する。
被害者文化の方法論
先日の記事でも少しだけ取り上げましたが、昨今は『被害者文化(Victimhood Culture)』が社会的な問題、或いは研究対象となっています。
被害者文化の詳細は専門書や書籍を読んでいただいたほうがいいのですが、大まかにまとめると次のような思想・考え方を指します。
■個人や集団が、侮辱に高い感受性を示すこと
■第三者へ不満を言うことで、対立を処理する傾向があること
■助けを受けるにふさわしい犠牲者のイメージを作り上げようとすること
現代社会を侵食する「被害者文化」の病理…暴走する「被害者意識」身勝手な「社会正義」とどう向き合うべきか?(林 智裕) | 現代ビジネス | 講談社
要約すると、自らが被害者であることを演出し、「加害者と認定した敵の道徳的地位を下げて」「被害者である自分の道徳的地位を上げる」ことで第三者からの共感を獲得し、その第三者を操って対立を処理することを是とする考え方です。
文明社会における通常の紛争であれば、何らかの被害を受けた場合は根拠や証拠に基づき法的手続きを持って対立を処理します。
しかし被害者文化の発想ではそういった法的手続きの煩わしさを省略するため、「被害」の認定を根拠や証拠に基づいた客観的事実ではなく極めて主観的な個人の「繊細」な感情を基に認定します。「私が被害を受けたと主張しているのだから、被害があったことは確実だ」そういった理屈です。
そのため被害の真実性や客観性は重視されません。主観的であってもとにかく「被害者」であることを演じられれば事は済みますし、被害者文化で動く人はそもそも法的手続きを重視していないことからむしろ積極的に根拠の無い主観による被害を訴えます。
「被害者」の立場を確立した後は、その被害を周囲に訴えることで第三者を味方につけて対立相手へけしかけます。数の暴力を用いて対立相手を脅迫するこのやり口は、ヤクザが大勢で囲んで脅しをかけるのと同じです。或いは村八分やイジメでも同様のやり口を用いられることがあります。被害者を救済しなければならないとした周囲の人々の「善意」や「やさしさ」を敵対者への「攻撃」に用いている点で、非常に悪辣なやり口だと言わざるを得ません。
要するに被害者文化とは被害を装って共感を勝ち取り他者を操って私刑を効率的に行うための発想であり、率直に言えば極めて野蛮な方法だと言えます。
もちろん本当に「被害」を受けている人もいるでしょう。しかしながら、厳しいことを言いますがそうであれば法的手続きに則る方法や話し合いの道を模索することができます。そうせずに私的制裁を望むのであれば、やはりそれは野蛮です。
被害者文化の問題
被害者文化ではとにかく「被害者」の立場に立つことが重要となるため、極めて他責的な思考になります。外部に責任を押し付ければ自身は潔白で純粋な被害者を装えるためです。自らの無謬性を疑うと「被害者」の立場を保てなくなることから、非や過ちを認めることもできなくなります。
どんな些細なことであっても「私は傷ついた」「私が不快だと感じた」と言えば被害者の立場に立てることから、善悪の区別もつかなくなります。他者の感情や社会の善悪よりも自身の感情が優越する、非情に利己的で自己愛的な思考です。
その結果、被害者文化を嗜好する人は「無数の他者」と「社会」に対して強烈な罰の意識を持つようになります。肥大化した自己愛と絶対的な被害者の立ち位置は無数の他者を「自身を傷つける大罪人」と認定するようになり、そのような罪人を放置している社会も同罪だと認識するようになるためです。
被害者文化は有限資源である「人々のやさしさや共感」を用いることから、弱者同士の争いすらもたらします。如何にして被害を訴えて他者の共感をかき集めるかに注力する結果、別の弱者に差し伸べられるはずだった手を奪うことになるためです。被害者文化では双方が幸福になるプラスサムではなく、誰かの勝ちが誰かの負けになる発展性の無いゼロサムしかもたらしません。
被害者文化は時に社会的弱者の救済をするように見えます。世の中には実際に「被害」を受けている人がいて、被害者文化はその人へ寄りそうような姿勢を示すためです。
しかし実際にはそういった被害を引き起こしている社会問題を被害者文化は解決しません。被害者文化による暴力での手っ取り早い解決と利得に味を占めた人は、いつまで経っても「被害者」の立場を手放せなくなるためです。
本質的に考えれば対立相手を自らの感情一つで暴力的に排除できる権力を持った「被害者」は特権階級の強者に他なりませんが、被害者文化では弱者で居続けるためにその特権性も認められません。
よって「被害者」をいつまでも悲惨な「被害者」のポジションへ固定するようなインセンティブが働き、本当の被害者がいつまで経ってもそこから抜け出すことができなくなります。社会問題の解決どころか永続化・固定化に資する動きをするのが被害者文化であり、だからこそ社会学者はこのような思考に対して警鐘を鳴らしています。
個人にとって
ここまでは社会的な弊害を語りましたが、私は一人の人間として被害者文化に染まらないほうがいいと思っています。
理屈からして、被害者文化に染まると幸福から遠ざかると考えるためです。
被害者文化はたしかに手軽です。自らの弱さを曝け出すだけで簡単に「被害者」の立場を獲得し、他者の力を使って利得を得ることができます。自らが支払う労力はほぼありません。
しかし「被害者」であり続けるためには常に「加害」を探し続けなければならず、つまりは物事の良い側面ではなく不平不満を生み出すための悪い側面ばかりを見なければならなくなります。
それは率直に言って自傷行為です。繊細さを拡張して被害を演じるだけであればまだしも、それを繰り返しているといずれ具体的な「被害」を被るようになります。自らを傷つけるのは他者の悪意ではなく、己の「繊細さ」です。
こ被害者文化の波を作って人々を先導する立場の人はアテンションエコノミーの中で金銭を獲得できるのでしょうが、そうでない扇動された人々はただただ不幸の渦に沈んでいくだけとなります。
ですので、あまり被害者文化に染まらないほうが健康に宜しいと私は思います。
結言
世を見晴るかせば多数の「被害者文化」が見られます。特に昨今の炎上騒動や社会騒乱などは多くが被害者文化の典型です。
その思想に染まらないよう、防疫のためにもそういった考え方があることを知っておいたほうがいいと思い、少し厳しめではありますが意見をまとめてみました。