昨今の社会問題における一部の事例では個々人の快/不快に関連するものがあります。それはたとえばハラスメントや表現の自由に関する論争などです。
それらの論争を観測する限り、必ずしもそうではないとはいえ社会では不快が愉快よりも強いと言えるでしょう。年末の除夜の鐘が騒音として中止になる事例があるように、世情にそぐわない不謹慎だと思われるものが批判されて自粛していくように、誰かにとって愉快なことでも誰かにとって不快であれば問題だとされます。
不快が強いこと自体は問題ではないが
社会は言わば愉快の最大化ではなく不快の最小化に向かっていきます。
それは誰かしらが指向しているものではなく、むしろ不快な思いを避けることは誰もが合意する自然な嗜好であり、生物として合理的でもあります。どのような生物であっても快の獲得より不快の回避を望むものです。
どれだけ好物のものが目の前にあっても死んでしまってはそれを食べられません。好物はいずれまた手に入れることができるかもしれない以上、生物の本能が優先するのは危険や不快からの回避です。
同様に、動物である私たちの集合体である社会が愉快の最大化ではなく不快の最小化に向かっていくのは自然の成り行きだと言えます。
不快が愉快よりも強いこと自体は問題ではありません。誰だって不快な思いは避けたいものです。愉快を優先して不快が最小化されることに異を唱えては、それこそ穿った言い方をすれば悪の助長にすら繋がりかねません。個人的な愉快のために行われる各種犯罪を是とすることは社会的に許容できることではないでしょう。
ただ、度が過ぎることも控える必要があります。
不快のカードは言うなればジョーカーです。誰も他者の不快には本能的に直接批判をしにくい以上、それを振るえば優位な立場に立てる魔法の杖であり、強大な権能を有している力そのものです。
そして力の是非を決めるのは力それそのものの有無ではなく、その自制によって定まります。制御されて適切に活用される力は"是"であり、そうでない力は"非"です。
ガタイのいい男が持つ暴力それ自体が問題なのではなく、その暴力で自儘に振舞い乱暴狼藉を振るうことが問題であるように、あるいは権力者の権力それ自体は社会に必要なものであって問題でなく、その権力を濫用して私利私欲に用いることが問題であるように、力とは常に謙虚と深慮に基づいた行使が求められており、それを保有することではなく行使の様が問われることに留意が必要です。
結言
つまるところ、不快を表明することは意識的にせよ無意識的にせよ強烈な力の顕示に他なりません。その力を発揮すること自体は問題ではなく、しかしそれが適切な行使であるかどうかが問題とされます。
もう少し簡単な表現で言うならば、不快は強いからこそ振り回し過ぎないようにする必要があります。誰もがむやみやたらと不快のこん棒で叩き合う世界になっては決して不快の最小化に至ることはできませんし、ましてや愉快の最大化にも資することはありません。
もちろん不快のカードを切るべき時はあります。しかしながらどこで線引きするかは情勢や事情に応じて適宜調整を行っていかなければならないものであり、とかく振り回して濫用することは避けたほうが良いでしょう。