自らの成果をアピールする行為は人によっては「品が無い」ように映るでしょう。
私もあまり得意ではありませんし、好みでもありません。「見ている人はちゃんと見ている」ものですので、黙っていても仕事の成果を評価されるほうがスマートだとは思います。
ただ、公私を混同せず、適切なアピールを行うことも仕事の一環だと考えたほうが気が楽になります。
そんな、人によっては愉快ではない話をしましょう。
『ごんぎつね』
新美南吉さんの名作『ごんぎつね』は国語の教科書にも載っていますのでほとんどの日本人が知っているでしょう。
村人の「兵十」にいたずらをしていたキツネの「ごん」。
ある日いたずらによって兵十を酷く傷つけたことを知ったごんは、今までのいたずらを後悔し、その償いとして兵十の家に食べ物を届けるようになった。
しかしある日、ごんが家の中に入っていくのを見た兵十はいたずら者のごんを火縄銃で撃ってしまう。
「ごん、お前だったのか。いつも栗をくれたのは」
兵十の最後の言葉がとても印象的なため、この悲劇的な物語は多くの人の記憶に残っているかと思います。
見ている人は見ていることは間違いないが・・・
「見ている人はちゃんと見ている」ものです。『ごんぎつね』の兵十は取り返しのつかないところで気付くこととなりましたが、そうなる前にちゃんと物事を見ている人はいますし、黙っていても仕事の成果を評価してくれる人は間違いなくこの世に存在しています。
ただ、残念ながら多くの人は「兵十」ですらありません。
見ている人はちゃんと見ていることは間違いないのですが、見ていない人は本当に見ていません。まったく気付かれずに全てが終わることすらあります。
そして上司や上層部が「見ている人」であるかどうかは完全に運次第です。出世する人の評価基準には「他者の成果を見ている人」であるかどうかが含まれていないため、こればかりはどうにもなりません。
もちろん成果をアピールすることを忌避する気持ちは分かります。家族や友人がやったことを恩着せがましくアピールしてくれば多少うっとおしいと思うでしょうし、謙遜を美徳とする文化では実績をアピールする行為はあまり品が良いものには映りません。
ただ、それは私的(プライベート)な欲求であり、集団(パブリック)な環境では必ずしも是とされないものです。なにせ集団ではその構成員の多くが「見ている人」ではなく、細かいところまで目配せをすることを全ての人に要求することが現実的ではないため、属人性に依存した評価ではなく「アピールによって開示された目に見えて分かりやすい成果」を評価せざるを得ないためです。こればかりは集団の論理として止むを得ない理屈であり、個々人のプライベートな欲求への配慮は行われません。
つまるところ、成果をアピールすることは集団(パブリック)における構造的なルール・決まり事です。ルールや決まり事は好き嫌いで従うことではありませんので、たとえ私的な欲求として成果をアピールする行為を忌避していようともそう考えると気持ちが楽になります。
なにより、上司や上層部が「見ている人」であることに賭ける行為、すなわち自らの人生や道程を成り行きの運任せにするのは、あまり分の良い賭け事ではないかと思います。
結言
もちろん自らの上司や組織の上層部が「見ている人」であればわざわざ自らの実績をアピールする必要はありませんので、その幸運に従いましょう。
ただ、その運に恵まれなかった場合は「ごん」にならないよう能動的に自らの実績を示して気付かせる必要があります。
他者に「兵十」以上であることを求めるのは高望みであり、成果はアピールするまでが仕事です。
なんともしんどい話ではありますが。
余談
ちなみに、たとえ上の人が「見ている人」でなかったとしても、人の数倍以上に比する実績を上げれば否応なしに貢献度が滲み出ますので、黙っていても評価されるようになります。
ただ、残念ながら数倍以上の実績をそのまま評価されることはありません。評価されるのは滲み出た分だけです。
それで良しとするか、それを勿体ないと思うかは人それぞれの価値観に依ります。