忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

開明的保守主義者の言い分

私「効率がとても悪いので、このようにやり方を変えてもらえないでしょうか」

相手「それは実績が無いので出来かねる」

 

 そんな理屈を持ち出されてしまうと、新しいことは何もできないじゃないか。

 

科学的思考

 伝統的に継続されている事柄には少なくともそれが続いてきただけの合理性と利得が存在するものであり、先例主義が必ずしも悪とは限りません。私は中道を重視するため開明的な側面と同時に保守的な側面も持ち合わせていますので、伝統や前例を重視する気持ちも分かるつもりです。

 とはいえ実績や前例は物事の評価における一側面に過ぎず、新しいことを拒絶する絶対的な論拠足り得ないとも思っています。事柄の腐敗を避けるためには滞留ではなく循環が必要であり、古い巨木が新木の芽を腐らすような事態は伝統の本質的価値をむしろ損ねる行為に他なりません。

 よって伝統や前例は常に新しい価値からの挑戦を受けるべきです。そして”そうであることの価値”を証明できない伝統や前例は、変容を受け入れるか新しきに道を譲って付随的な傍流へと退くべきでしょう。

 

 これはある種の科学的思考だと言えるかもしれません。科学的理論は自らが誤っていることを確認するテストを考案して実行できることが重視されます。もちろん反証主義が必ずしも絶対的な理念ではないものの、科学の健全性を保つための一つの立場として反証可能性は重要です。

 伝統や前例も、科学的理論と同様に自らの正当性について挑戦を受けることこそが健全性を保つと考えます。

 

変化させるリスクと、変化させないリスクを天秤に

 私は開明的かつ保守的なため、穏健かつ堅実に物事の進歩を進めるべきだと信仰しています。ドラスティックな変革によって人々に生じる犠牲を無視してでも飛躍的発展を遂げるべきだとは考えませんが、かといって硬直的に現状維持をすることも適切だとは思わず、余裕を持った段階的進歩こそ最終的な成果が大きいと考えます。

 そのためには伝統や習慣に固執するのではなく、耳心地の良い道徳や信念を絶対視するのでもなく、人々が許容できる範囲で、効率の最大化ではなく不幸の最小化を伴って変化させていくことが望ましいです。

 伝統や習慣に固執することは変化させないリスクを見落としています。同時に、耳心地の良い道徳や信念を絶対視することは変化させるリスクを無視しています。古きと新しきを平等に天秤へ載せ、バランスが崩れないよう慎重に取捨選択することが理想的です。

 過度に天秤が偏ると多数の重い側ではなく少数の軽い側が投げ出されてしまいます。その少数の犠牲を良しとすることは適切だとは思えません。

 

結言

 以上のような考えを持っているため、何かしら新しいことを導入する際に「実績が無いので出来かねる」と拒否されることは承服しかねます。実績が無ければ変えられないのでは新しいことを一生導入できません。何よりそれは現状のやり方が最適かどうかの論拠とはなっていません。新しいことの実績が無いのは事実であり、そのリスクは未確定です。しかしながら現状を継続することのリスクも実のところ不透明だと言えます。

 よって新しいやり方をドラスティックに導入するのでもなく、かといって全面的に否定するのでもなく、適宜新しいことを適用して様子を見ながら変化をさせていくことこそが最終的に最も大きな成果を得られると私は信じます。