忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

「どっちもどっち論」は不適切ではあるが、頭ごなしに否定することも望ましくない

 それは黄信号だと思う話。

 

基本的には不適切

 どっちもどっち論は概ね「五十歩百歩」や「どんぐりの背比べ」に類する言葉で、対立軸が生じた議論や闘争において双方に問題があるとする見解を指して呼称されます。

 どっちもどっち論は基本的には不適切です。たとえ双方に過失や問題があったとしてもその軽重は議論の余地があるもので、何もかも一緒くたの十把一絡げにデジタル的な判定ができるものではありません。

 

 どっちもどっち論は誰が言うかによっても意味合いが異なってきます。

 論争の佳境で劣勢側がこれを持ち出すのは議論をうやむやにする目的以外の何物でもなく、詭弁です。

 第三者が述べる場合は多くの場合でリスキーな結果となります。当事者は問題の軽重を争っているのに対して、その論争の意味を失わせる言葉だからです。よって第三者からすれば水を差して論争を鎮めるために用いるものではありますが、当事者からすればむしろ論争を加熱する燃料として働きかねません。ひどい場合は丸く収めるどころか第三者を巻き込んでの争いに発展することも考えられます。

 

 どっちもどっち論は誰にとっても取り扱いの難しいものであり、安易な濫用は避けるべきではあります。

 

頭ごなしの否定はリスク

 このように基本的には不適切などっちもどっち論ですが、とはいえ頭ごなしに否定することもそれはそれでリスクです。

 論争において双方の軽重を争うこと自体は問題ではありません。しかし第三者から提供された「どっちもどっち」を一切省みることなく否定する姿勢は相当に極端で、実際にどっちもどっちでは無いにせよ視野が相当に狭まっていることを自覚する必要があります。

 「どっちもどっち」が一切受け入れられない精神状態は自らの党派性によって自論への無謬性が高まっている状態だと言えます。つまり自らには一切の過失や問題はなく、相手に全ての問題があると”思い込んでしまう”陥没に陥りかねません。

 もちろん0:10で相手が完全に悪い場合もありますので「どっちもどっち」が受け入れられないのは分かりますし、その場合の「どっちもどっち」は完全に不適切です。1:9で相手が悪い場合もあります。それもやはり「どっちもどっち」ではないでしょう。

 ただ、頭ごなしに「どっちもどっち」を否定してしまうと、どっちもどっちではないことを証明するために相手を完膚なきまでに叩き潰して1:9を0:10だと強弁するような、自論が無謬だとする誤認識をしかねません。軽重を争っていたものがいつの間にか白黒を争うようになり、自らが白だとするために相手を完全な黒だと否定しなければ自論が成り立たない状態へ落ち込むリスクがあります。

 そして1:9を0:10と言い張るのは詭弁です。「どっちもどっち論」という詭弁を退けるために自らが詭弁を弄するのは、残念ながら不適切な行いです。

 

結言

 どっちもどっち論は基本的に不適切な言説ですので、これを否定すること自体は問題ありません。ただ、頭ごなしに否定してしまうと自らを省みることができない状態へ陥るリスクがあります。

 よって「どっちもどっち論だから不適切」と考えるのではなく、「これはこのような事情によりどっちもどっちではないから不適切」といったように、どっちもどっちではないことを論証することによって否定することが適切です。

 

 

余談

 Whataboutism(そっちこそどうなんだ論法)はまた別の話です。これはただの詭弁です。論点のすり替えに過ぎませんので、否定される必要があります。