幾度か当ブログでも述べてきましたが、私は技術屋であり応用科学を専門とする工学屋ですが趣味は人文科学と社会科学を学ぶことです。道徳的な話や倫理的な話を時々記事にしているのはまさに趣味の発露というわけです。
少なくともこの趣味が直接的に仕事へ生かせるわけではありません。工学は人文科学と社会科学の知見をも用いる幅広い分野ではありますが、本気で実益を重視するのであれば数学や力学といった理工系の学問を学ぶほうがよほど効率的です。
実益を重視せずに愛好するものが趣味の定義である以上、私の学びはまさしく趣味と言えるでしょう。
より良い生き様のために
勉強が趣味と公言すると世の中から変人扱いを受けるように思えて、私は言動全般が変人寄りですのでその心配はありません。100のおかしな行動を取る人がもう1つおかしな行動を取っていたとしても、おかしさの等級はほぼ変動しないのです。
例えば上述した一文からも次のような事柄を考えています。
■勉強とは何か、学びとは何か
■趣味とは何か、それは必要なものか
■公言とは何か、公私の差はどういったもので何故生じるか
■世の中や公とはそもそも何を意味しているか
■変人とは何か、それは問題なのか
■変動とは何か、同一性はどのように保たれるのか
これらはすでに過去の人々によって思索が進められてきた内容であり、効率的に思考するためには先人たちの積み重ねてきた人文科学や社会科学の知識が役に立ちます。なにせ整備されていないケモノ道を突き進むよりは先人の拓いた道を通るほうがより効率的です。
木を切る時に必要な道具と、木の形を整えるために効率的な道具は異なるように、思考にもそれぞれ専用の道具が不可欠です。
もちろんノコギリ一本でも、もっと簡素で原始的な道具でも、時間や体力の浪費、そして住み心地の良さなど様々な指標を無視すれば家を建てることはできます。思考も同様、先人の残した地図が無くとも効率性や利便性を無視し尽してしまえば学問の力を借りずに可能です。
しかしながらそれは遠く果てしない道です。下手をすれば道に迷い、困難に喘ぎ、それでも目的を達成できないかもしれません。それは誰しもが求める「より良い生き様」には資さないものです。人の短い人生において”自らのために”より良い生き様をするには、それぞれの行動目的に合った良い道具を学び獲得することが合理的だと私は考えます。
これは学校教育で幅広い分野を網羅的に教育することの意味でもあります。人の長い人生において何に直面しどのような道具が必要になるかは誰にも分からない以上、少しでも多くの道具を持たせてあげたいと思うのは大人のおせっかいであり、愛そのものです。
結言
工学は人の生活を豊かにして物理的に救うための学問です。日々の不便や非合理的な物事を低減し、人々が求める通りに生きるための物質的余裕を作ることを主目的としており、そのために数学や物理などを道具として用います。
それに対して人文科学や社会科学は人の心を豊かにして精神的に救うための学問です。だからこそ、生きることが辛い人、日々が苦しい人ほど哲学・宗教・倫理といった人文科学・社会科学の分野に触れて欲しいと思っています。そこには苦しみを取り除くための様々な道具が揃っているのですから。