忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

人文社会アカデミーと実社会を繋ぐ工学屋の必要性

 私の趣味は人文科学と社会科学を勉強することですが、一応の本業は応用科学畑のエンジニア、つまり工学屋です。

 工学の定義は長ったらしいのですが『数学と自然科学を基礎とし、時には人文社会科学の知見を用いて、公共の安全、健康、福祉のために有用な事物や環境を構築することを目的とする学問』です。

 よって人文社会科学を工学屋が勉強することは無意味ではありません、恐らく。もちろん工学屋は自然科学や形式科学を優先的に学ぶべきであることは論を俟たないのではありますが、まあ趣味が必ずしも仕事に役立たなければいけないということはありませんので、好き勝手勉強しています。

 

実社会への実装と工学屋の存在意義

 工学屋の仕事は大学や研究所で理学屋が生み出した新しい理論や物質を、実際の社会でも使える有用な形に加工することです。

 どれだけ新規性が高く独特で素晴らしいモノでも、それが実社会にそのまま実装できるとは限りません。研究所のフラスコの中で可能なことが規模を拡大してもそのまま使えるわけではないのです。

 分かりやすい事例で言えばカーボンナノチューブでしょうか。素晴らしい夢のような材料として時々ニュースで流れることがあると思います。まあ、大抵の場合『夢の物質』と謳われた材料はあまりよろしくない結果になるのではありますが・・・(例:フロンガス)

 カーボンナノチューブは名前の通り炭素(カーボン)で出来た物質です。鉛筆の芯とダイヤモンドがどちらも同じ炭素から出来ていて原子がどのように繋がっているかの違いだけだということは広く知られていると思いますが、カーボンナノチューブは同じように炭素の繋がり方が違う同素体の一種です。

 カーボンナノチューブは金属よりも軽く、しかしダイヤモンドのように硬い物質です。さらに柔軟で伸び縮みすることもできることから巨大な構造体を作るといった用途に役立ちます。また導電性と耐久性にも優れており導線や電気回路への使用も可能です。さらに熱伝導率も高いので耐熱材や伝熱部材に用いることもできます。他の物質にはない新しい機能性を持たせることだって可能です。もっと言えば炭素は希少性の低い元素であり枯渇の懸念も少ないです。

 歴史は意外と長く、1950年代にはすでに発見されています。具体的に実用化の研究が始まったのは1970年代ですが、それでも50年の歴史を持つ材料です。

 そんな歴史を持つ素晴らしい物質がなぜ実社会でほとんど使われていないのか?

 これはもう単純に価格の問題です。とにかく製造にコストが掛かるため大量生産が出来ないのです。年々技術開発が進み製造コストが低減してきてはいますが、まだまだお高い物質です。

 この、価格を下げるために製造工程の技術開発をするという部分が工学であり、理論や新技術が抱えている問題を解決して実社会で使えるようにすることが工学の神髄です。どれだけ素晴らしい理論や技術でも実際に使えなければその道具的価値を発揮できないのであり、それらに手を貸して実社会へ導くのが工学屋のお仕事ということです。

 

人文社会科学における工学の不存在

 そんな工学屋の目線では、人文社会科学には工学屋の存在が無い、もしくはほとんど機能していない、と考えています。

 自然科学では研究室の技術が社会に直輸入されることがないのに対して、人文社会科学は直輸入されることがとても多いです。「どこそこの教授が見つけた理論では~」とか、「誰それの発見した法則によれば~」といったように。

 これは工学屋からするとかなり奇異に見えます。その理論は本当に社会に実装しても問題無いの?ちゃんと実験した?前提条件はどこまで合わせる必要がある?規模や条件を変えて試した?というような気持ちです。

 

 要は、工学というのは新しい知見を実社会へ落とし込む際のクッション的役割を持っているのです。

 たとえ明日、世界中のエネルギー問題を解決するような尋常ではない化学反応を発見したとしてもそれが明後日から誰もが使えるようにならないのは、ドラスティックに社会へ実装しては何が起こるか分かったものではないからです。もしかしたら危険かもしれない、持続性が無いかもしれない、人体や環境に悪影響を及ぼすかもしれない、規模を拡大したら問題が起きるかもしれない、効率的な機関や装置を考えなければいけない、そういった長い長い検証と開発をして初めて社会へ実装可能になります。散々やらかしてきた歴史を人類は持っていますので、歴史を繰り返さないような緩衝材の機能を現代の工学は持っています。

 それに対して人文社会科学では新しい理論や発見があまりにも無思慮に社会へ実装されているような気がしてなりません。そのせいで実社会に物凄い負荷が掛かっていると感じます。

 

人文社会科学にも工学屋が必要

 例えばダイバーシティ経営、これは経産省の言葉で言えば「多様な人材を活かし、その能力が最大限発揮できる機会を提供することで、イノベーションを生み出し、価値創造につなげている経営」と定義されています。

 定義を見ればとても同意できる内容だと思います、同質集団よりも多様性のある集団の方がイノベーションが生まれやすいことは間違いないでしょう。これは社会学研究でも証明されている事実です。

 しかし、工学屋の目線からすれば、じゃあどうやってダイバーシティ経営を実現するの?ということです。採用方法は?組織の構造や権力勾配の分配は?職場の環境は?言語の違いは?休憩や休日の取り方は?宗教や信仰の違いは?残業の取り扱いは?上げていけば課題は無数にあります。多様な人材を生かしと言うのは簡単なことですが、どう生かすかというのはとても難しい問題なのです。

 実際、ダイバーシティ経営がイノベーションや企業業績に良い影響をもたらすという社会学研究の結果では次のグラフのような結果になっています。

 このデータを引用している経産省の言葉を借りれば

文化的な多様性を含むチームは、多様性を相互に認識・理解し、適切に管理すれば、単一文化のチームよりもパフォーマンスが高い傾向が見られた

他方、多様性が十分に理解されず、適切に管理されない場合、反対の結果が見られた

としています。相互の理解と適切な管理が不可欠ということです。ただ何も考えずに多様な人材を採用したとしても、コミュニケーションコストはむやみに膨張し、それぞれの文化や属性でのセクション化が進んで協力関係を持てなくなり、組織として同じ目標に向かって進むことができません。

 この『どうやって実際にやるか』ということは軽視してはいけないどころか、それを真剣に考えずに新しい理論や技術を直輸入すると大変に痛い目を見ることになるのです。

 

 この他にも「こうすれば世の中は良くなる」という素晴らしい理論や技術が日々人文社会科学のアカデミーから発表されていますが、それをどう現実に落とし込んで実装するかという工学的知見がどうにも少ないように思えます。もっと社会に無理無く負担無く新しい理論を軟着陸させる、そういったことを考える工学屋の存在が人文社会科学には必要だと考えます。