忘れん坊の外部記憶域

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文系と理系、気持ちまで分けるのは勿体ない

 理系と文系の区分について、時々世間で語られているのは『理系と文系を明確に分けているのは日本だけ』という言説です。その実態については教育畑の人が議論されているのでそちらにお任せするとして、今回は文理の区分に関する愚見をつらつらと語ります。

 

 あ、是非ではなく問題認識に関して1点だけ。若いうちに文理で分けると進路の選択肢が狭まるという意見を見かけることがありますが、日本はどちらかというと世界的に見て進路が定まるのが早いわけではないのでこれは誤りです。例えばドイツでは10歳頃にはもう将来の進路が決まると言われていますし、イギリスやフランスも高校である程度決まります。

 

学問的な区分は分かるけど

 学問の分野はいくつかの分け方があります。メジャーな分類としては大きく分けて5つ、自然科学、応用科学、形式科学、人文科学、社会科学があり、前者2つが理系分野、後者2つが文系分野、形式科学はその間という扱いをされているかと思います。

 まあ実際のところ、これらを文理で分類することも馬鹿馬鹿しい話です。古代ギリシアの人は文法学、論理学、修辞学、幾何学、算術、天文学、音楽を人が持つべき技芸・自由七科として定義していたように、基本教養であるリベラルアーツは人文・社会・自然と幅広く取り扱っています。将来的に専門が分かれるにせよこれら学問の基本的な所、学びにおける土台の部分は文系・理系問わず誰もが触れておくことが正しい姿勢であり、理系だからあれをやる、文系だからこれをやる、というものではないのです。

 

文理は分けないほうが面白い

 先日の記事で心の形について変な話を語りました。まあいつものように馬鹿な記事ではありますが、心に関しては文系学問の領域で断面二次モーメントは理系学問の領域であり、文理が上手いこと考え方として混ざっているのと言えるのではないでしょうか。

 私は工学屋という応用科学畑の人間ではありますが、趣味は人文科学と社会科学を学ぶことです。そのため、この駄ブログでは時々見かけると思いますが、社会科学や人文科学の問題を自然科学や応用科学の切り口で見ることが多くなります。こういった視点は文理の垣根を意識し過ぎているとあまり持てないと思うのです。

 学問分野やジャンルは横断的に学んで組み合わせると単独よりも面白い結果をもたらすことが多くあります。電気と磁気が実は相互作用があることが分かって電磁気学になったように、また数論のモジュラー形式と代数幾何の楕円曲線という違う数学分野が合わさることでフェルマーの最終定理が証明されたように、さらには経済学に心理学を用いることで行動経済学という新分野が生まれたように、異なる分野による異なるレンズで覗き込むと物事は別の形を示します。それはとても面白いことだと、そう思います。

 

遠くを見る、近くを見る

 学問の違い、分野の違いは様々あれど、とても大雑把に言ってしまえばそれぞれでやっていることは同じで、距離や解像度を変えることだと思っています。研究対象が違うだけでやり方は似たようなものであり、言うなれば学問とは顕微鏡や望遠鏡のような道具に似たものです。

 普段私たちは自分の目で見える範囲、手で触れる範囲で物事を見ています。自然科学はそれに対して縮尺を変えて、大きなところは地球や宇宙、小さなところは微生物や素粒子というように大小様々なものを見えるようにします。

 これは他の学問分野でも同じようなものです。社会科学という道具を使えば触れ合える範囲よりもっと大きな集団についてを見ることができますし、人文科学という道具を使えばもっと局所的な範囲である人と人の関わりや心理状態についても触れることができます。また考古学や歴史学という道具を用いれば三次元的な距離だけでなく四次元的に時間の長さだって変えることができます。

 見ているもの、触れているものの距離や解像度を変えることができる。それが学問的知見であり、学問の道具的効用というわけです。

 こう考えると、何か一つの学問を修めれば他にも流用できることが分かります。理系だから理系学問しか学ばない、文系だから理系学問は分からない、と考えるのではなく、幅広く学び、その知見を流用してさらに幅広くを学ぶ。垣根無く携わろうという姿勢こそが肝要であり、そのためにも文理を分けて意識してしまうのは勿体ないと、そう愚考します。