超加工食品に関する報道からの連想。
超加工食品、言葉の響きがすでに強い
超加工食品を巡ってアメリカで訴訟が起きたとのニュースを見かけました。どうやら、ガンや心臓病などの疾患と関連付けられる超加工食品を「欺瞞的に」製造・販売促進したとして大手食品会社10社が提訴されたそうです。
まあ、訴訟大国アメリカですので、さほど意外性のあるニュースではありません。
ただ、超加工食品についてはちょっと技術屋として理解が難しいと感じます。
普段からあまり健康に気を使っておらず、恥ずかしながら超加工食品のことを知らなかったので、調べてきました。
超加工食品(Ultra-Processed Foods)とは、食品加工の程度と目的に基づいて食用物質を分類するための枠組みであるNOVA分類のグループ4にあたる食品のようです。グループ1は未加工/最低限の加工、2は加工された調味料、3は加工食品で、4はもっと加工された食品と分けられています。
このNOVA分類、食品加工の程度と目的に基づいた分類にどれだけ科学的な厳密性があるかは、正直なところよく分かりません。食品の加工度合がどれだけ高いかよりも、その食品の栄養バランスや原材料の有害性で分けたほうが意味があるのではないかと素人の私は思います。
それこそ「家庭で作る砂糖マシマシの手作りお菓子」よりも「栄養バランスを整えるための栄養補助食品」のほうが加工度が高いから有害だ、とするような分類は、ちょっと使い勝手が悪いのではないでしょうか。
もちろんこの分類の目的は推察可能です。
個々の食品の栄養や原材料を厳密に区分していくことは難しいことから、統計的に、恐らく健康に悪いだろうものが多く含まれているであろう工業生産された食品の摂取を一律に低減させたほうが公衆衛生の向上に資するだろう、と考えての分類なのでしょう。
まあ、それもそれで一面的で、安価で高カロリーで長期保存が可能な超加工食品を安易に社会から減らした場合に社会全体の食糧事情がどうなるかは研究が必要なような気もしますが。
なにはさておき、NOVA分類については世界中で専門家の方々が議論されていますので、門外漢としてはそちらにお任せすることにします。
私の大まかな理解として、"科学的"な分類としては欠陥があるものの"実践的"な活用としては特定の範囲で使えるものだと思っておけば良さそうです。
それが"法的"な論拠としてはどう評価されるのかに興味がありますので、訴訟の続報を待ってみようかと思います。
日本やスウェーデンのリベラル性
それよりも気になるのは、超加工食品を規制しようと考える社会的な発想です。
欧米でのNOVA分類に関する議論をざっと眺めてみると、「人々が何を食するかを国家や知識層が制御すべき」とした発想があるように思います。超加工食品は危険だから国がちゃんと制限すべきだとした考え方です。
私はどちらかと言えば「国がいちいち直接的な世話を焼く必要はない、それよりも子どもたちにちゃんと食育をして、何を食するか自ら考えられるようにすべき」ではないかと考えています。
このような考え方の違い、自己決定権と国家権力に対する認識は2020年のコロナ禍でも顕在化していました。
日本やスウェーデンのように「国家はお願いベース」で後は国民の自己決定権に任せていた国々と、西欧や米中のように「国家がロックダウン」をして国民の自由を制限していた国々。文化と社会に大きな差異があると言えます。
どっちが正しいというわけでもありませんが、私はその点で比較的リベラルな価値観なので、国家如きが個人の自己決定権に介入するべきじゃない、なんて思っています。
超加工食品についても、「超加工食品を規制して流通を制約しましょう」ではなく、「加工度合に関係なく栄養のある食品をちゃんと選んで食べましょう」と道筋を示すのが正道かと。
前者のやり方では、結局人々の栄養への理解が不足したままで食事の質を高められるとは限らないですし、食事の質を上げることが目的なのだからそれをそのまま教育すべきだと思っています。
自己決定権の尊重は、リベラル的にはとても大切な概念です。
もちろん過度な自己責任論へ陥るのは宜しくないですが。
結言
このテーマを要約すると、「公衆衛生のために個人の自由を制限するべきか」であり、コロナ禍でも議題となったこのテーマが超加工食品でも生じている、そんな話です。
何が正しいかは人それぞれ異なる問題ですし、最終的には程々のところに落ち着くことになるでしょう。規制に寄り過ぎればディストピア的になり、自由に寄り過ぎれば自己責任論が暴走します。
栄養と同じように、バランスが大切です。