忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

リスク管理の観点から見た自衛戦力の保有に関して

 自衛戦力をどの程度保有するか、そのためにどの程度の予算を確保するかが昨今議論されています。

 防衛関係予算をどの程度確保するかという「予算ありき」の官僚的思考は望ましくないだろうことは過去の記事で述べました。

 今回はその前段階、そもそも自衛戦力を持つべきかどうかの議論について私見を述べていきます。異なる意見を否定したいわけではなく、むしろ相互理解のためには意見を開示することに意味があると考えるためです。

 

危機管理の常道

 前述の記事通り、私は国家の自衛戦力を必要なものだと考えています。

『小国では大国の軍事力には敵わないのだから軍事力を備えることは無意味だ』という意見があります。申し訳ないですが私としてはその意見には不賛成です。それを肯定してしまうと大国のエゴによって小国が蹂躙されることを黙認することにもなりかねません。ルクセンブルクやモナコ、アイスランドのように軍事力を持たない小国であっても大国に侵攻された歴史的な事例があり、むしろ小国であるからこそ大国の侵略企図を挫き掣肘するための国防力が不可欠だと考えます。

 

 リスク管理の基本として、起こり得る事象に備えるのは必要だと考えます。

 つまりは危機管理という概念です。危機管理は医療や工学、金融や経営など様々な分野で様々な言葉を用いて理論構築されており、大きく分類すると未然防止事後対応の2つで構成されています。

 泥棒に入られたら金銭的な損失を被る可能性があるので、泥棒が入れないようセキュリティを構築するのは未然防止に該当します。

 一家の大黒柱が不慮の事故で亡くなったら残された家族が困るので、保険に加入するのは事後対応です。

 危機管理においてこの両輪はどちらも重要であり、欠かすことができない要素となります。

 何らかの危害が生じた場合にその復帰策や対処法を準備しておくことは必要です。しかし当然そのような危害が生じないに越したことはありませんので未然防止が重要となります。

 ですがありとあらゆる環境要因をコントロールすることは不可能なため、未然防止は危害の発生を確実には防ぐことができません。未然防止だけに注力しているといざ危害が生じた際に多大な損失を被ることから事後対応の準備は必要です。

 そのため、未然防止と事後対応の双方を合わせて準備し防護するのが危機管理の基本となります。

 軍事力は未然防止と事後対応の双方を担っています。軍事力は事態発生時の事後対応策としても当然活用されますが、適切な戦力は国家間戦争のみでなくISILのようなテロリスト集団の武装蜂起や国家転覆を謀った内乱なども抑止する未然防止の機能も持っています。

 つまりコスパが良いため、だからこそ世界中の国々が軍事力を直接保有するか、大国の軍事力の傘下に所属しています。

 

リスクの概念

 リスクとは【発生確率】と【発生時の影響】の掛け算です。

 どれだけ危害が頻発しようとも被害が小さければリスクは小さいと判断されます。反対にどれだけ甚大な被害をもたらす危害でもそれが発生しないのであればやはりリスクは小さいと判断されます。

 ガラスや陶器は落としただけで破損してしまう脆い材質ですが、それが生じることによる損失は小さいためリスクは小さく、人々の許容範囲であることから私たちの日常生活で用いられています。

 リチウムイオン電池は条件によっては発火・爆発する危険を持っていますが、それが発生する確率は極めて低いため、やはりリスクは小さいと判断されます。

 

 危機管理の言葉で言えば、

【発生確率】を下げるのが未然防止

【発生時の影響】を減ずるのが事後対応です。

 リスクを低減するためには危機管理の双方が必要なことがお分かりになるかと思います。 

 

総合的なリスク評価

 人権はとても重要なものであり、守られ尊重されるべきものだと理解しています。戦争や争いごとは人権侵害の最たるものであり、避けなければならないものです。

 ただ、私は争いごとを好みませんが、争いごとを好む人が世の中に存在することは現実であり、その人たちを世界から排除する適切で穏便な方法を思いつきません。

 また、人権を守るためにはそのための主体が必要です。法律と同様、何らかの強制力が存在しないと権利を守ることはできず、そしてその権利は同じスケール以上の主体でなければ管掌できません。世界人権宣言で述べられているようにすべての人は生まれながらに尊厳と権利を平等に保有していますが、その権利の行使を保障する主体は現時点で大きな集団以外にありません。

 個人の人権はそれ以上の集団が担保しなければならず、集団の人権はやはりそれ以上の集団でなければ担保できません。現時点における最たる主体は国家です。ある国家の人権侵害は関係国や他国でなければ阻止することは不可能です。国際社会はアナーキズムであり、自衛権行使国の国民が持つ自然権を守れるのはその国や別の国家に他なりません。

 その観点からして、自国民の人権を守るために国家が防衛策を保有するのは自然な行為だと考えます。

 たとえ他国に侵略されても非暴力非服従で抵抗すればよいという意見があることも承知していますが、他国へ暴力的行為を用いて侵略する国家の人権意識に期待するのは、それこそリスクが高いのではないかと考える次第です。

 

平和主義を守るのか、平和を守るのか

 自衛戦力の保有に関しての言説でよく見かけるのが「平和主義を守る」という言葉です。これにどうにも違和感を覚えてしまいます。

 私は平和主義を守るのではなく、平和を守るべきだと考えています。イデオロギーや主義主張、信念や理念を守るのではなく、平和という状態を守ることを望みます。

 そのためには外務省や政府による外交と対話だけでなく、皇室外交や軍人外交、民間外交や民間交流といった様々なチャンネルを全て駆使すべきだと考えますし、経済的依存関係による戦争抑止効果を狙うべきですし、同盟なり集団安全保障を構築すべきですし、非暴力的プロパガンダを積極的に行い国際社会に働きかけて侵略国家の企図を挫くべきですし、自衛戦力による抑止をすべきです。

 危機管理の観点と同様、「どれかに注力する」のではなく「全部に対応する」ことで初めてリスクを充分に低減できるのであって、できることは全て行うべきだと考えています。

 

 平和主義を守ることは難しいことですが、行動は言ってしまえば単純です。信念を曲げず貫き通す意思の力次第です。極論ですが、戦争状態に陥ったとしても非暴力非服従によって平和主義は守れます。

 しかし、守るべきはその信念なのか、それとも平和という状態なのか、これは一度整理して考える必要があると愚考する次第です。