どちらの言い分も分かるようになった世代の戯言。
言葉が変化することへの是非
言語学者が語るまでもなく誰もが体感的に知っていることとして、言葉は変化していきます。それは言語自体が持つ動的な特性を理由とするものもあれば、外部環境によるものもあります。
話者の不完全な言語習得も一つの要因です。発話や語彙が不完全に伝承されることでも言語は変化していきます。
年配者がいわゆる「言葉の乱れ」を懸念するのは話者の不完全な言語習得を危惧することが理由の一つでしょう。適切に言語を学んでいれば言葉が誤用されることはないはずだとした考えは、実際には言語が変化する原因は不完全な言語習得のみではないため絶対的に正しいわけではありませんが、間違いなく原因の一つであり、懸念すること自体は妥当です。
このような言葉の変化に対して取り得る態度としては、「言葉は変化するものだから言葉の乱れを受け入れる」或いは「適切な教育体制を整えることで言語習得に注力し言葉の乱れを防ぐ」のどちらかでしょうか。
私はどちらも正論であると思います。
言語は変化することを前提として、「言葉の乱れ」や「正しい言葉」のような価値判断を言語に導入することを批判的に捉えるのは学問的に誠実であり、また同時に方言や新語のような「相対的に弱い言葉」を保護して多様性を維持するためには正誤に依らないニュートラルな判断をすべきだと考える前者の態度には意味があります。「正しい言葉」の強制は必然的に「正しくない言葉」の抑圧に繋がり、権威勾配や不平等を生み出す種となりかねません。
対して、言葉はコミュニケーションの道具でありそこに差異が生じると意思疎通や情報伝達に支障を来たす問題があることから、後者のように言葉の固定化を図り言葉の変化を許容しない姿勢にも価値があります。
世代による自動調整機構
要するに、いつも述べているように必要なのはバランスです。
言葉の乱れを無制限に認めるのではなく、しかし言葉の絶対的な固定にも拘らない、変化の速度を監視しつつも流れは止めないように注意する、そのような天秤を社会が持てばいいかと思います。
そしてその天秤は実のところ個人の意思や意図による介入が不要です。放っておいてもオートマティックに機能します。
「正しい言葉」の正しさは相対的です。
平成の言葉を正しいとする人もいれば明治の言葉が正しいと思う人もいます。江戸の言葉こそが正しいと思う人だっているかもしれません。現代で正しいとされる言葉遣いは平安時代であれば正しくないでしょう。
言葉は変化し続けている以上、どの時点における言語を正しいと判断するかは人それぞれです。この差異はそれぞれの言語習得環境に依存することから、つまりは世代での差となります。
要するに、若年者が言葉を変えて年配者が言葉を訂正する現状が連綿と続くことこそが言葉の変化に対する天秤として機能します。いずれは今の若年者が言葉を訂正する側に回り、新たな参入者がまた言葉を変化させていく、そのサイクルはほどほどバランスが取れていると言えるでしょう。
結言
つまるところ、言葉の変化は収まるところに収まるだけです。
よってそこまで目くじらを立てず、しかし注意は払う、その程度の感覚で良いかと思います。
余談
微妙にニュアンスが違うもの、違うものとして捉えなければならないものとして、「言葉」と「言葉遣い」があります。
言葉遣いも時代性を持つものですが、それ以上にTPOが意味を持ちます。
よって「若者言葉」的な言葉そのものを言葉の乱れとして批判するよりも、そういった若者言葉の使い所が適切かどうかに注意を払ったほうがいいかもしれません。それこそ「若者言葉」を正しくない言葉、悪い言葉として捉えるのであれば、悪い言葉をこの世から無くそうと無理な努力をするのではなく、そういった悪い言葉を使ってはいけないTPOを教えることが効果的でしょう。
悪を知らないことはただの無知であり、善ではありません。
善と悪の双方を知り、それでも善を選び取ることが善です。
善と悪を知りながら悪を選び取ることは恥であり、人はそれを恥知らずと呼びます。