どうでもいい話をしましょう。
「何かを始めるのに遅すぎるということはない」的な言説があります。
捻くれた持論ですが、遅いことはあるでしょう。歳を取ってから競馬の騎手や宇宙飛行士になることはできませんし、何事も若いうちのほうが上達や成長は早いことは間違いありません。
良し悪しと善悪
この言葉を全面的に否定するわけではありません。希望のあるポジティブな言葉ですし、私はオプティミストですのでこういった言葉は好きです。
ただ、この言葉の意味合いを少し考え直してみる必要があると考えています。
ここで考え直すべきは、良し悪しと善悪の差です。
何かを始めるのに遅いことはあるだろうが、それが道徳的に悪いことではない、そういった捉え方をするべき言葉だと考えています。
物事を始める時期は良し悪しの差を生みます。それは否定し難い現実です。
しかしそれは善悪の差ではありません。
上手くなること、大成すること、多くの収入を得られるようになること、そういった成功が道徳的善であると考えることは認知バイアスに他ならないためです。
良し悪しの「悪」は物事の質や結果の評価であり、道徳的な善悪の「悪」とは異なります。同じ単語だから間違えやすいですが、この点を混同している人は良し悪しの「悪」を道徳的悪だと誤認しかねません。
実際、技能の低い人や社会的に成功していない人、収入が低い人をまるで道徳的に劣位な存在であるかのように考え、その反対に社会的成功者や高所得者を道徳的優位にあると考える人は世の中に居ます。無能は悪、金があれば偉い、その考えは誤りです。
真に道徳的な善悪を決めるのは物事の良し悪しではなく、道徳的善とは他者への献身や慈しみにこそあります。
要するに、何かを始めるのに遅いことはあるでしょうが、それが道徳的に悪いことではありません。下手の横好きだっていいのです。遅かろうと好きなことをやればいいでしょう。
結言
物事の質や結果の評価に思考が左右されて道徳的善悪が混同してしまうのは、物事の決め方が他者基準の【他人指向型】であることが原因です。常に他者との比較を前提とすることは、道徳までもが他者との比較によって定まるとの思い込みに陥ります。
もちろん他者との比較が常に悪いわけではありません。それは時に向上心を生み出す推進力となります。
ただ、度が過ぎてはいけないですし、常に他者との比較が正しい結論を導き出せるわけでもありません。時には質や結果が伴わなくても己が好きにやること、物事の決め方を自らの基準で決める【内部指向型】に切り替えたほうが健全な思考を保てるかと思います。