近代的で、原始的。
社会的な自由の近代性
「自由」の言葉や概念自体は遥か昔から存在していたものの、その区分と定義は時代によって変化します。特に古代より存在した元々の自由(freedom)に対して、後天的に生まれる社会的な自由(liberty)の概念は啓蒙時代以降の近現代に人工的な概念として固まったと言ってよいでしょう。
「自由」というごく当たり前に存在していそうな概念の中でも、現代人にとって社会的な自由とは比較的新しいものです。
ただ、概念が近代的であっても構造が近代的とは限りません。
抑圧の歴史や啓蒙思想が自由の概念に新たな側面と社会的価値をもたらしましたが、そもそも人は反抗期を代表例として本能的に自己決定欲求を持つものであり、自由であることが自然な状態として認識されています。反面、不自由であることは社会的な制約やルールに基づく人工的な状態です。
人工的な状態や抑圧を非とし、自然状態である自由を無条件に是と認識する。
その構造は、実のところ原始宗教における自然崇拝と同様かもしれません。なぜ抑圧は非で自由が是かは倫理・心理・社会など様々な側面でその是非を論じることができるものの、私たちは本能的にそれが問題だと感じるよう刷り込まれていると言えるでしょう。
本能的であることを少し嫌味に言い換えると、自然だから善いと判断する認知バイアスに陥っているとも言えます。
私たちは近代的な自由(liberty)を原始的な自然崇拝によって善いものと捉えている、と考えると少し面白みがあるのではないでしょうか。
そもそも自由を語るのは難しい
ここまでは自由をルソー的な捉え方に立脚して語りましたが、カント的に自由を「道徳法則に従う意志の自律」のように定義した場合はその限りではありません。カントからすれば自由とはそれが善いものであることは変わらないまでも、極めて人工的です。
この手の哲学に片足を突っ込んだ思索はどうしても定義が膨大な過去によって様々あるため、なんとも面白く、そして難しいと感じます。自由や正義はまさに今なお最前線で研究されている哲学的テーマであり、半可通が迂闊に語ると火傷しかねません。
まあ、この記事は私が思い付くままの思索を垂れ流しているだけですので、哲学で飯を食っているわけでもなし、ある意味で車輪の再開発ができればそれで充分です。
結言
ルソーとカントをごちゃ混ぜにして、自由とは抑圧されておらず抑制されている状態であると捉えておけば、なんだかんだ色々と説明がしやすいんじゃないかと、そのくらい適当かつ自由に「自由」のことを考えています。