ミステリーやニュースの見過ぎ症候群。
善悪の切り口は必ずしも必要ではない
何か社会的な問題が起きたり事故が起きると、人々やメディアはつい犯人探しをしてしまうものです。それこそ例えば社会問題に対して「〇〇〇の犯人」とした煽りの見出しを書くようなネットニュースがあるように。
しかし犯人探しと原因探しは別物です。
確かに事件であれば犯人は存在します。
しかし社会問題や事故は必ずしも誰かしらの悪意によって生じるとは限らず、原因はあっても犯人は存在しない、そんなパターンも当たり前のようにあります。
犯人とは悪です。
しかし原因は悪とは限りません。意図せぬ過失の場合もあればちょっとしたすれ違いや失敗の場合もあり、それらは決して人の悪意によって生じたものではなく、むしろ時には善意からでも生じる事象です。
そのような原因に対してなんでもかんでも善悪の切り口をもってして悪と認定するような社会では、断罪を避けるために問題や事故の原因となった過失や失敗を隠すようになってしまいます。
失敗が正しく認識されずむしろ覆い隠されるような社会では、当然ながら問題が再発し続けていつまで経っても世の中は前進できません。
私たちの社会はむしろ善意と無知が原因となることのほうが多い可能性すらあります。必ずしもミステリー小説や犯罪のニュースのように誰かしらの悪意によって事件が生じるのではなく、原因に悪意を見出してしまうのだとすれば、それはミステリーやニュースの見過ぎです。
罪を生む構造
要するにハンロンの剃刀は大切な考え方であり、無能で十分説明されることに悪意を見出すな、です。
万事完璧な人間はこの世にまず存在しておらず、人は常に何かしらにおいては無能となります。その無能による失敗を悪意に基づく犯人だとしてしまっては、失敗を隠そうと不正を働く動機を生んでしまいます。
無能であることは罪ではなく、失敗を隠そうと不正をすることが罪です。
そしてその罪を生んでいるのは無能ではなく、周囲の人々が他者へ見出す悪意に他なりません。原因探しをすべき時に犯人探しをしてしまう人間心理は、罪を生む構造を創り出しているとすら言っていいでしょう。
結言
私は技術系の仕事をしていますのでよく原因探しをします。市場で不良品が生じたり設計で問題が生じた場合はその原因を突き止めて解消しなければならないためです。
その際は犯人を探すようなことはしません。働いている人は誰だって市場不良や設計ミスをしたいと思っているわけもなく、そこにあるのは原因だけです。悪意は存在していない以上、個人を責めても意味は無く、むしろ個人を責めてしまっては原因が隠蔽されてしまい解決が遠のくばかりです。そうではなく原因だけを取り除いて仕組みを改善することが必要となります。
そのような視点からすると、世の中はもう少し犯人と原因を区分した方がいいのではないか。私はそう思っています。
つまるところ、言いたいのは『間違い』と『過ち』を区分すべきだということです。
『間違い』とはヒューマンエラーです。焦りやうっかりミス、誤認や誤解といった原因によって為すべきことが為せなかった受動的な行動を意味します。
『過ち』とは意図的な逸脱です。手抜くためにやるべきことをやらなかったり、利益や悪意のためにやるべきでないことをやったりと、為すべきことを為さなかった能動的な行動を意味します。
これらは明確に区分して理解されるべきものだと考えます。
もちろん人や社会に損害を与えたことに対する罰は『間違い』と『過ち』の双方に存在します。交通事故を起こしたとして、それが過重労働による疲労であろうとよそ見運転であろうと、罰の軽重はあれど罰則が適用されるのは社会の正義です。
しかし『過ち』とは違って『間違い』は罪ではありません。『過ち』は避けられるのに対して、『間違い』は人が人である以上避けようがないものだからです。これらを一緒くたにして断罪するのは不適切だと考えます。私たちが断罪すべきは『過ち』のみです。