とても辛辣だが、盤面に文句を言うのは大抵の場合で愚かである。
自責と他責
一般に、「他責的であるよりは自責的であったほうが良い」と言われています。
それは妥当な考え方でしょう。変えられない他人や周囲をどうこうしようと考えるよりは変えられる自分を変えたほうが合理的です。
また広い視点で見ても、他人や周囲を変えようとすることが常に正当化される他責的な社会では個人が80億以上からの変化を強制されることが認められる状態となり、個人が個人を強制する自責的な社会と比べて遥かに身動きの取れない窮屈な社会となることは必定です。他罰が推奨される社会は無数の他者からの他罰をも許容しなければならない弱肉強食となります。
そのような万人の万人に対する闘争を許容するよりは、それぞれがそれぞれを律する自責的な社会のほうが人は生きやすくなるかと思われます。
ゲーム
自責的であることをもう少しイメージしやすく例えてみましょう。
ボードゲームやカードゲームで遊ぶ時、盤面も見ずに自分が求める最善の戦略を常に実行しようとする人がいれば、それは大抵の場合で愚か者です。
正しく最善を求めるためには、対戦相手の思惑を読み取り盤面の実情を理解してそれに沿った手を打つこと、或いは自らの戦略を実現するために前々から盤面を整えるだけの剛腕や深慮が必要となります。
それこそ将棋やチェスのトッププレイヤーを見れば分かるように、彼らはどのような対戦相手であってもその相互作用によって生まれる盤面において最も適した手を指すことで勝利を収めます。天才だからやりたい放題好き勝手にやっているのではなく、むしろ逆です。
優れた人はその盤面に対して他責的に文句を言うのではなく、その中でどれだけ自身が最適を選べるかどうかを自らへ自責的に求めることで優れた結果を手に入れます。より良い盤面を願望して他者を動かそうとするのではなく、より良い盤面を希求して自ら動く人こそが優れており、それこそが自責的であることの意味です。
自責的であれば優れた人になれるわけではありませんが、自責的であることは優れた人となるために必要な条件となります。
結言
もう少し厳密に言えば、他責的と自責的を峻別するのは言葉の向きではありません。外側へ不満を述べるか内側へ不満を述べるかで分かれるのではなく、何を述べていようともそれに応対すべき行動責任の主体をどちらに置いているかで区分されます。
「環境や他者が悪い」と考えても詮無いことであり、「自分が悪い」と考えることも心の毒です。前者は他責的であり、後者は自責的ではありません。
「自身は何をすべきか」と問うことが自責的な行動であり、責任とは結果への責めではなく為すべき務めとして引き受けるものを指します。