忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

「お題」の持つ力と問題意識の差異

 今世紀のお題「国家の統一、世界政府の実現は可能か」

 

 ・・・いえ、その、はてなブログさんの「お題」的な感じで書き始めてみようかな、と。ちょっとした出来心のジョークです。

 

 とりあえず今世紀中に世界政府を樹立することは無理だとは思います。経済・資源・文化・地理、様々な側面で見ても人類はまだそれらの偏在性を克服するほど発展していませんので。今の文明レベルで世界政府を目指しても内戦待ったなしかと。

 「国家間戦争を撲滅するために武力と恐怖を持ってでも世界政府の成立を目指すべきだ」と考える人がいらっしゃるかもしれませんが、個人的にそういった路線は好みではないです。暴力による世界征服なんて、そんな物語の悪役ムーブを現実世界でやろうとするのはちょっと首肯しがたいもので。

 

「お題」の力

 問題解決の入り口は問題の明確化です。

 例えばどれだけ酷い労働環境であっても労働者にその自覚が無ければ改善に動けないように、他人からどれだけ悪い扱いを受けていたとしても本人がそう思っていなければ声をあげられないように、問題はそれが問題であると認識されなければ問題ではないのであり、まずは問題を捉えて定義することが最初に必要です。

 冒頭で提示した問題提起に関しても、それに関心が無い人からすれば何ら意味のある「お題」ではありませんが、国家間戦争の撲滅を目指す人々からすれば存分に語られるべき要素を含んでいるテーマです。

 国家のボーダーがあるから国家間戦争が生じるのであり、そのボーダーを無くせば国家間戦争も無くなることは確かに道理です。もちろんボーダーを無くすことが内戦や紛争の完全な撲滅に資するわけではありませんが、一つの方向性として語られることには意味があるでしょう。

 

 つまるところ、問題とは必ずしも目に見えるものではなく、表層的に感じられるものでもなく、人々に気付かれなければ問題足り得ません。

 そして適切な問題提起、適切な「お題」の設定は人々の気付いていなかった問題の輪郭を明確にして人々を思考や行動力を動員する力を持っていると言えます。「お題」は人々を動かすだけの大きな力を持っているわけです。

 

問題意識の差は必然的に生じる

 ただ、それは同時に、たとえ自身が問題だと思っていても他者が同様の問題意識を持つとは限らないことも意味します。

 「問題は問題だと認識されなければ問題ではない」以上、同じ情報を受け取ったとしても同じことを問題だと思うわけではないからです。

 これは情報の格差によって生じるのではなく、気付きや感性、価値観や判断基準によって生じるものであり、つまりは人それぞれ異なります。

 だからこそ、この問題意識の差を善悪や優劣で捉えるのは危険です。

 「これを問題だと思わないのはありえない」

 「問題解決を阻害する奴らは悪だ」

 「無知で愚かな奴らに啓蒙しなければならない」

 このような発想に陥ってしまうと過激化への道へ一直線となってしまいます。

 過去にも記事にしたことがありますが、問題意識の差は善悪や優劣ではなく人それぞれ異なるものだということは常に留意しなければなりません。

 

結言

 必要なのは自身の問題意識をそのまま押し付けることではなく、相手に理解できる形で、相手の共感を得られる表現で、相手の行動を促せる言葉で伝えることです。

 つまりは適切な「お題」の設定です。闇雲に押し通そうとすれば反発を受けるだけであり、適切な「お題」を設定する工夫をすることが問題意識の共有には必要です。

 

 

余談

 例えば「世界政府はどう樹立すればいいか」に興味を持たせるのであれば、「それが国家間戦争を無くす方法の一つである」と述べるだけでなく、「環境問題のようなグローバルな課題の効率的な解決に資する」「食料分配の改善によって飢餓の撲滅に役立つ」など様々な側面を持って語ることが必要になります。問題意識を共有したいのであれば、興味を持たない相手を責めるのではなく、そうやって他者の興味を惹くことが重要です。