忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

「疑惑」で戦える時代はもう終わっている

 

 なんだかネットの政治クラスタが兵庫県知事選の話題でいっぱいになっています。

 とはいえ過去にも沖縄県知事選の際に述べたように、私は地方自治体の選挙に関して口を挟む気は一切ありません。地方自治体のことはそこに住む人々が決めることであり、私のような外野が述べることは特に無いです。

 よって今回は兵庫県知事選とは少し異なるフォーカスとして、報道における「疑惑」について述べていきます。

 

 今回の兵庫県知事選に関するワードでは「パワハラ疑惑」を最も見かけました。これに限らず、政治界隈での報道では「疑惑」が多々報じられる傾向があると思われます。

 かつて情報源が多元化される以前の時代、マスメディアがほぼ全ての情報発信を牛耳ることができていた時代であれば「疑惑」の報道に一定の効果が見込めたでしょうが、現代においては非常に宜しくない報道姿勢だと私は考えています。

 

「疑惑」と「事実」

 「疑惑」とはつまり裏取りができていない、事実を確定できていない事柄です。裏取りができているのであれば疑いではなく事実として報道すればいいわけで、「疑惑」とする場合は裏取り取材が済んでいないことを意味します。

 そして現代人は疑惑が生んだ冤罪などの事例を様々知っていることから、疑惑に対してある程度の色眼鏡を持っている人が増えていると考えます。つまり疑惑は疑惑であり、事実かどうかは検証や裏取りが必要だろうと考える人の増加です。

 これはメディアや集団の特性上仕方がないことではありますが、個人的な好みとしては疑惑よりも事実の段階で騒ぐべきだと思う次第です

 

 もちろん犯罪等の事件や事故そのものは速報で取り上げるべき内容です。

 しかし容疑者や疑惑の対象に対して騒ぎ立てるのは違うと考えています。容疑はまだ疑惑の段階であり、本当にそのような事実があったかどうかは推定でしかないのですから。

 集団心理や盛り上がりを考えるとこのような事象はやむを得ないことは重々承知しているのですが、疑惑の段階ではまず判断を保留し、その人や組織が実際に悪事を行ったことが確定した段階で騒ぐほうが適切だと考えています。

 速報が誤報である可能性や冤罪の可能性がある以上、疑惑の段階で騒ぐのは勇み足による不要な社会的制裁への加担に繋がりかねませんので注意が必要です。

 

 疑惑の段階ではまだ判断を保留すべきだとした考えを持つ人からすれば、「疑惑」があるのであれば裏取り取材をすればいいじゃないか、それが報道機関の仕事だろう、とまで思う程度には「疑惑」によって攻める報道姿勢に疑問符を持っています。

 そういった考えの人からすれば、延々と「疑惑」を報道されたとしてもなかなか感化されにくいものです。

 

 さらに言えば、著しいまでの極論ですが、悪徳警察官が証拠を捏造して冤罪を作り出せるように「疑惑」は作り出すことすらできます。事実という名の証拠が無くても「疑惑」は報道できる以上、その疑いを持たれることは自然な流れです。

 そのような大衆の疑惑を打ち消すためには「疑惑」を確定させるための事実を提示する他なく、いつまでも「疑惑」のままではその報道姿勢に疑惑をもたれてもやむを得ないでしょう。

 

「疑惑」と「陰謀論」の近接

 さらに言えば、「疑惑」は「陰謀論」の良い的です。「疑惑」には事実の拠り所が無い以上、陰謀論的ストーリーに長けた人であればいくらでも背景のナラティブ・物語を構築することが可能だからです。

 もっと極端な話、その「疑惑」自体が陰謀であると、「疑惑」を反転させることすら容易でしょう。なぜならば、厭味ったらしい言い分ではありますが、事実に基づかない言説という共通点において「疑惑」自体が構造的には陰謀論に近似するものだからです。

 もちろん「疑惑」は厳密には陰謀論とは異なるものですが、この共通点を逆手に取れば「疑惑」を反転させて陰謀論へ仕立て上げることも可能です。

 その対抗策としては堅牢な事実によって地固めする他なく、陰謀論者に弄ばれないためにも「疑惑」ではなく裏取りによって得た事実を報道することが適切だと私は考えます。

 

結言

 以上より、現代社会において「疑惑」一本槍での報道姿勢にはあまり同意いたしかねます。それは説得力に乏しく、悪意に脆弱です。

 現代は情報の発信源が多様化した時代であり、様々な人が好き勝手に無数の「疑惑」を報じることができる時代です。そんな時代に「疑惑」で戦うのはもう時代遅れであり、メインストリームメディアはエビデンスに基づいた情報を武器としたほうが良いと思っています。