忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

統計的差別云々も考える必要はあるが、そもそも他者を攻撃すべきではない

 

 誰しも内心の自由はありますので心の中で思うだけならばいいのですが、差別や悪口を口に出したりネット上に書き込んだりしてしまうのは宜しくないことです。

 特に統計的差別は気をつける必要があります。

 

 差別とは『人種、性別、宗教、国籍、民族、性的指向、障害、年齢、言語、社会的身分などに基づく不当な扱いや恣意的な区別』だと国連が定義しているように、不当であったり恣意的であれば差別となります。

 そして統計的差別は”論理的で正当な差別以外のもの”に誤認しがちなものですが、統計的差別はどれほど合理的に見えても差別の定義に該当します

 

統計の恣意的な判断

 あまり具体的な例を出したくありませんのでボカして、「ある地域に住む男性の価値観」に問題があるとした差別を例とします。

 価値観の直接的な統計はそもそもありませんのでまずそれ自体が議論されるべきではありますが、仮にその地域の男性が不適切な価値観を持っている傾向を持つことが事実だとしても、当然ながらそれは100%ではありません。

 統計的差別は「統計的にそのような傾向がある」ことを根拠にしているため、ある属性が100%の特徴を持っているのであればそれはそもそも"統計的"ではありませんし、そのような生得的特徴に対して不当な扱いをするのは直球の差別となります。

 では、10人中1人が不適切な価値観を持っていればその地域の男性を統計的に差別してもよいでしょうか?

 それはちょっと比率としては少ないような気がするかと思います。

 では10人中5人であれば?

 人によっては差別を合理的だとする充分な人数に思えるでしょう。

 では10人中4人ならば?あるいは3人ならば?

 いよいよそれが合理的かどうかは人によって変わることでしょう。

 

 まさにこの点、どの程度の比率であればその属性を差別的に取り扱うことが合理的であるかの基準は合理的に決められないこと、これこそが統計的差別の持つ本質的な差別性です。それぞれの人が好き勝手な基準で勝手な比率を合理的だと判断しており、これは差別の定義である”恣意的な区別”と言わざるを得ません。当人が合理的だと思っているそれは、当人が思う恣意的な合理に過ぎないのですから。

 

そもそも論

 レッテル貼りの中でも「差別主義者」はかなり強力なものです。「差別主義者」のレッテルを貼られることは社会的な死を意味する地域もあります。

 だからこそ統計的差別をする人は自覚的にせよ無自覚にせよ「これは差別ではない、合理的な判断であり妥当な区別だ」と主張せざるを得ない状況です。

 ただ、厳しいながら統計的差別は明確に差別です

 たとえどこかの地域で特定の人種の犯罪率が高かろうとも人種という属性に対して不当な扱いをしたり恣意的な区別をすることは差別であるように、社会的合意の無いまま統計を理由に特定の属性や他者を恣意的に区別することは差別以外の何物でもありません。

 

 そもそも論として、属性をもって他者を攻撃するべきではありません。前述したようにその属性の人が100%持っている生得的なものであれば直球の差別となりますし、一定の比率で持っている割合的なものであれば統計的差別となる以上、「人種、性別、宗教、国籍、民族、性的指向、障害、年齢、言語、社会的身分」といった属性を攻撃する行為は全て差別に繋がります

 「白人はかつて黒人を奴隷にしていた、だから現代の白人は反省しなければならない」は生得的なものを理由とした差別ですし、「アメリカでは黒人の犯罪率が高い、だから黒人は監視されなければならない」は統計的差別です。

 

 もっと言えば、そもそも他者を攻撃すべきではないです。

 どんな理由があろうと他者を攻撃する行為は本質的に悪でありやってはいけないことです。

 もちろん背景事情次第では免責されたり情状酌量されたりすることもありますが、それは裁判所の仕事です。勝手に己の暴力を正当化してはなりません。

 

結言

 差別はいけないことだとした規範意識は世に広まっていますが、「これは差別ではない」と自己の言動を免責することでその規範をハックする人が世の中にはいます。統計的差別はその中でも使い勝手のいいツールとして悪用されがちです。

 そういった詭弁を見抜けるよう、或いは自らがそういった詭弁を用いてしまわないよう、そもそもの根本的な規範として「他者を攻撃すべきではない」を意識しておいたほうがいいかと思います。