忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

Time(時)Place(場所)Occasion(場合)は言説と同程度に大切

 

 当ブログでは類似テーマの記事を時々投稿しています。

 これは何も毎日投稿するネタが切れたとか書いたことを忘れたとかではなく、いや書いた内容を忘れることは時々ありますがそれはさておき、どうすれば伝わりやすくなるかを模索しているためです。

 自らの思考を語るうえで、様々な表現を用いることは実に妥当で常套です。自らが最も理解しやすい言葉だけでは同じ感性を持った狭い範囲の他者にしか伝わりません。様々な人に自身の思考を幅広く展開するためには時に相手が共感しやすい言葉を用い、時に相手が想像しやすいたとえ話を用い、時に抽象的、あるいは具体的に物語ることが必要です。

 ちなみにお釈迦様の説話に似たような話がたくさんあるのは相手の能力や状況に応じて教えを説いていたためだと言われています。対機説法というやつで、表現を変えて繰り返し語ることは歴史と実績のある手法を援用していると言えるかもしれません。

 

 言い訳がましい入りではありますが、要するにいつもと同じような話をします。

 

差別であることの認識

 一般的な社会でもネットでも口喧嘩の種は絶えません。

 たしかに片一方が明確に間違えていた理屈を述べている場合もありますが、しかしそれでもそれを闘争にする必然性は無く、穏健かつ穏便に物事を治めることもできるはずです。

 相手に非があるからといって加害することが許容されるわけではありません

 間違えたことを述べた人に誹謗中傷を行ったり、悪事を働いた人を攻撃する行為は社会規範からの逸脱に他ならず、それが内心の範囲であればまだしも公共の場で表出することは控える必要があります。

 

 強い言葉を用いますが、世の中を構成するルールの根底は暴力禁止であり、勝手に何かしらの理由を付けて自らの加害性を免責するのは恣意的な区別、すなわち差別です。差別や私刑を許容する発想は近代以前の価値観であり、現代人であれば抑制する必要があります。

 たとえ相手が悪人であったとしても、他者を誹謗中傷していいことにはなりません。

 どれだけ相手に非があり自身の言動が正当だと認知していたとしてもその正当性は社会に担保されていない独善であり、やっていることは差別以外の何物でもありません。

 

正論の取り扱い

 正論であれば許されるとも限りません。

 その論がたとえ正しかろうとも、それを言うことが正しいとは限らないためです。

 ピッチャーマウンドからバッターボックスへ向かって投げる時速150kmの剛速球と、街中で他者に向かって投げる時速150kmの剛速球は、どちらも同じ時速150kmの剛速球ですが前者は正しく後者は正しくないことは論を俟たないでしょう。同じ剛速球であっても用いられる状況が異なるために善悪の差が生じます。

 正論も同じで、それ自体の正しさとそれを用いるTPOの正しさは別枠です。正論が正論として機能するためには必要な時に正しい場所で適切な場合が必要となります。それらを無視して正論で相手の非を殊更に突き付ける行為は褒められたものではありませんし、むしろ正論の価値を貶めます。

 

結言

 嫌味な言い方ですが、正論を他者に押し付ける行為は愉悦をもたらすものであり、そういった嗜虐性の娯楽化は控えたほうがいいと思います。

 独善に基づく差別やTPOを弁えない正論は他者を捻じ伏せて自らの優位性を認めさせる娯楽的効果を見込めるものの、それは己のみの愉悦であり他者や社会にとっては有害な行いです。「社会のために悪人を攻撃している」と自らの嗜虐性を覆い隠せているように見えて、それは他者や社会からすれば有害な仕草そのものであり、むしろ行為者自身が他者や社会から排除される結果をもたらします。過激な活動家がその過激さゆえに世間から疎外されるのと同様にです。

 当人にとっても周囲にとっても望ましからぬ結末をもたらしますので、TPOを無視して嗜虐性を弄ぶことは避けたほうが宜しいでしょう。