今回は説明責任に関する、少し辛辣で棘のある話。
説明責任の追及限度
さまざまな事例において、行政や政治家、経営者や団体への批判の論拠として用いられる言葉が「説明不足」です。
直近の事例であれば、防衛力を巡る首相の説明は共同通信の調査で「十分ではない」が88%に達したと報道されており、説明が十分ではないことは批判の理由として正当だと考えられています。
もちろん社会に影響を及ぼす権力の行使者には明確に説明責任(アカウンタビリティ)があります。行使者は直接的・間接的なステークホルダーに対してどのような目的によってどのように権力を行使し、その結果どうなるか、そしてどうなったかを報告する法的・倫理的な責任がある以上、説明が不十分であることは責務を果たしていないことと同義であり、間違いなく批判理由として適格です。
ただ、それは必ずしも安易に振ってよい鉈ではないとも考えます。
説明責任は本来的に双方向性を持たなければ機能しないものだからです。
説明不足の本来的な適用範囲
誤解してはいけないこととして、説明とはなにも口頭で行うものだけではありません。家電の取扱説明書と同様に文書によるものも説明には含まれます。
そして直近の事例として挙げた防衛力についても、予算増額の目的や何にどの程度予算を使うかは防衛省のwebサイトで比較的広範かつ明確に文書によって説明されています。
細かい数字の部分には個人的に気になるところもありますが、少なくともこれら文書による説明に大きな不足は感じません。
説明責任は答責性とも呼ばれるものであり、問責と答責がセットにある性質のものです。
つまり、説明責任とは上記資料の内容を分かりやすく国民に伝えるようなことではありません。行政が説明用に開示しているこれら資料の内容に対して疑義や問責が行われた場合に答えることが説明責任であり、それに答えなかった場合が説明不足です。
防衛力を巡る首相の説明に関して、説明が不十分だと答えた方は具体的に行政が説明のために開示しているこれら資料を読んでいるのでしょうか?「この資料に対する説明が無い」と騒ぐのは筋違いです。それは説明を受け取りに行く姿勢が無い側に責があります。
説明責任が適用されるのは「この説明資料におけるこの部分が不透明だから開示しろ」といった問いに行政や政治家が答えなかった場合にのみ適用される性質のものであり、「私たちに分かりやすく伝える努力が足りない」ことは批判の完全な理由足り得ません。それを認めてしまっては、受け手側が聞く努力を放棄していた場合には無限に批判の道具として悪用できてしまうためです。
民主主義の双方向性
民主主義では、行政や政治は説明を十分に行い、また受け手側は説明された情報を自ら取りに行き良否を判断する双方向性が不可欠です。
もちろん権力の行使者には分かりやすく説明を行う道義的な義務があるとは考えますが、同時にステークホルダーである人々は説明を迎え入れて理解する努力の義務があります。
「お上」の"ご説明"を、国民がまるで巣で餌を待つ雛鳥のように待ち惚けていては民主主義が成り立ちません。
結言
民主主義社会において、権力の行使者には説明を行う責任がありますが、同時にステークホルダーである私たちには説明を受け取りに行く責任があります。黙って待っていれば全てお膳立てして目の前に差し出してくれると考えてしまっては民主主義が土台から腐れ落ちかねません。
そのためにも、「説明不足」に対する一部の誤解は解かれるべきだと考えます。
余談
とはいえ全ての国民が権力の行使者が開示する説明を全て把握し理解することは難しいものです。
権力者の説明を噛み砕き分かりやすく人々に伝える機能はマスメディアが保有しており、だからこそ民主主義社会においてマスメディアは不可欠であるとされています。
つまりところ、実は俗な意味での説明不足は権力者ではなくメディアではないかと愚考しています。
また説明に関して、誤解はあるにせよ、政治家の口頭での説明能力にも問題はあるとは思います。口が回ればいいというわけではありませんが、話し合い利害を調整するのが政治である以上、口が回らない政治家は困ります。