例年、年度の初頭は新入社員研修の講師役として引っ張り出されるため、この時期は仕事や商売について考えることが多くなります。
今回は新入社員や研修に関連する連想ワードとして、いまいち掴みどころのない言葉である「働きがい」について考えてみましょう。
「~がい」の意味
「~がい(甲斐)」を辞書で引くと、次のような意味だと説明されています。
- 動詞の連用形や動作性の名詞などに付いて、その行為をした効果・効験の意を表す。(例:生き甲斐・・・生きることの喜び、生きる価値)
- 主として人間関係を表す名詞に付いて、その人間関係の効果を発揮する意を表す。(例:友達甲斐・・・友達の値打ち、友達として相応しいつきあい)
「努力した甲斐があった」「生きている甲斐がない」などの用例からして、主要な使い方は前者のほうでしょう。他にも「~がい」としてよく用いられる「やりがい」を検索してみれば、その行為を行ったことによる効験や期待できる利得を意味する言葉として妥当に使われています。
「やりがい」とは、仕事をすることで精神的に満たされる価値観や理由がある状態
仕事のやりがいとは?従業員が感じる瞬間と自分で見つける方法│コラム│C・Dラボ│キャリア開発・キャリア研修のライフワークス
「働きがい」は何かが違う?
ところが、「働きがい」をGoogleで検索してみると少し意味合いが分からなくなってきます。
働きがいとは、従業員が自らの意思で積極的に仕事に取り組もうとする意欲のこと。
働きがいとは、与えられた仕事に誇りや価値を感じ、自発的に頑張ろうとする労働意欲のこと。
国際経済労働研究所では、社会心理学の観点から、「働きがい」をワーク・モティベーション(仕事に対する動機づけ)と定義し、取り扱っています。
語義から考えれば、「働きがい」とは「働くことによって当人が得られる効験」を指す言葉のはずです。それは収入であったり満足感であったり自己肯定感であったり、様々な形態を持つでしょうが、ただ、何はともあれ「~がい」による結果の果実は当人が得られるものであるはずです。
しかし、上述した引用では主体が変わっているように感じます。労働意欲ややる気、ワーク・モチベーションによって利得を得るのは組織や雇用者であり、当人が直接的に得られる効験ではありません。
当人ではなく別の主体が利益を得るような言葉に「働きがい」がすり替わっているような、そんな印象を受けてしまいます。露骨に言えば、「働きがい」を「働かせることによって組織が得られる効用」として語っていないでしょうか?
すれ違いの不幸
労働者は「働きがい」を「働くことによって自らが得られる効験」と考え、雇用者は「働きがい」を「働かせることによって組織が得られる効験」と考えた場合、どうにも不幸な思い違いが生じてしまうような気がします。
雇用者が「我が社は働きがいを重視する。働きがいとはすなわち労働意欲のことだ。だから労働意欲が喚起されるような施策を行おう」とした場合、労働者からすれば「いや、意欲とか求められても困る。こちとら労働によってこっちが得られる効験が欲しいだけなんで」と冷めた気持ちになるような気がします。
もちろんそのような施策の一環として働きやすさが改善されるのであれば上々ではあるのですが、このすれ違いがあるまま互いに異なる「働きがい」へフォーカスすると、上手く噛み合わず互いに目的を達せない不幸なデッドロックに陥ってしまう可能性すらあります。
結言
私は内心の自由を尊ぶ派なので、労働意欲を国家や企業が強制することは好みではありません。意欲やモチベーションの量や方向性には個々人に差異があり、その高低やベクトルを管理するではなく、ただ「為すべきことを為しているか」のアウトプットで判定すればいいと思っています。
そんな思想の人間によるポジショントークではありますが、「働きがい」は言葉の語義からすれば「働くことによって当人が得られる効験」であり、労働意欲はその結果生じる副次的なもののはずです。
よって組織が「働きがい」を重視するのであれば、労働意欲の大小ではなく当人が得られる効験へフォーカスすべきではないかと愚考します。