それは下手をすれば差別に繋がるから。
ステージの概念
“All the world's a stage, -And all the men and women merely players.”
(この世はステージ(舞台)。 人はみな役者に過ぎない)
とシェイクスピアが書いたように、ステージに例えて人生を分割する考え方は比較的一般的です。「ライフステージ」しかり、スピリチュアルな用語である「魂のステージ」しかり、和製英語としても頻繁に用いられています。
ステージは様々なニュアンスが内包されているものの、日本語にするのであれば「舞台」や「段階」と訳せるでしょう。
このような区分自体は自然な考え方ですし、特に問題はありません。
ただ、取り扱いには少し注意が必要な概念だとも言えます。
ステージの違いと差別の結びつき
ステージ(舞台)が観客よりも少し高い位置にあるように、ステージ(段階)の概念における移動は昇降を伴います。
それはすなわち、上下の意味を持ちます。
つまり、ライフステージを上がった人が下にいる人を遅れていると感じたり、魂のステージが高まった人が下にいる人を侮蔑したりするようなことが起こり得ることを意味します。
これらは多少の範囲であれば少しの優越感や劣等感を喚起する程度のちょっとした感情動作であり、大したことではありません。
ただし、スピリチュアルにおける魂のステージ、他にもレベルなり次元なり表現は色々あるでしょうが、こういった「魂のステージ的概念」は他のステージよりも取り扱いに注意が必要です。
まず、それらは現世における功徳に限らず前世における功徳までも引き継いでいる概念です。「魂のステージ的概念」はその論理上、必ず前世からのカルマの継承が不可欠となります。
なにせカルマが現世に限定されているのであればわざわざ"魂"を持ち出さなくても「日頃の行い」などの概念でカバーできる以上、概念の差別化としてアートマンの一意性、前世からの循環と継承が必要になるためです。
前世から継承されるカルマ、それは現世に生きる個人ではどうにも変えようがないものである以上、容姿や能力と同様に生まれながらの先天的な特性と同義です。
そして先天的な特性に基づいて他者を侮蔑したり下に見る行為を人は差別と呼びます。それは絶対的な差別です。
苦言となりますが、つまるところ「魂のステージ的概念」をもって人々の上下を判定する行為は、人種や、性別や、容姿や能力をもって上下を判定する行為と何一つ変わることはありません。
さらに敷衍すれば、「魂のステージ的概念」に限らず「ステージ的概念」は上下の区分をもたらして相対的な差別を生み出す構造的欠陥があり、個人的にはあまり好みではありませんし、何はともあれ扱いには注意が必要なものだと考えます。
結言
もちろんこのような考え方を他者に強要する気はあまりありません。
私は差別をなるべくしないような社会のほうが好ましいと思っていますが、それが世界の総意というわけでもなし、私としては差別がなるべく少なくなるような社会を希求するだけです。