忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

経済に関する論争を見る度に思うこと

 

 自然科学屋からすると経済学は別世界に思える。

 

何を善とするかの基準

 古典的な自然科学は非常に”硬い”学問です。科学的手法と再現性が非常に重視されており、いつ、どこで、誰がやっても同様の結果をもたらす法則を取り扱っています。

 そこには意思や思想信条の差は無く、資本主義者がいつ試験をしても社会主義者がどこで試験をしても関係ないものが自然法則です。時に反証が発見されて新たな法則となったり古い法則に修正が加わることはあるものの、本質的には不変の法則を見出すことこそが歩みとなります。

 

 その点、経済学は少し趣きが異なります。

 昨今であれば関税に関する議論が分かりやすいでしょうか。

 関税は他国の輸出ダンピングなどに対して国内産業や市場の保護に繋がる方策ですが、その反面、物価に影響を与えて消費者の負担が増しますので間接消費税に相当します。関税を上げることは一部産業を守るための増税と言い換えることもできるでしょう。

 そのため自由主義的な経済学者は自由貿易の阻害や大衆への負担を理由に関税を好ましいものとは考えず、保守主義的な経済学者は国家安全保障や産業保護による治安維持などを理由に関税を肯定しています。

 

 ここが個人的に理解し難いところで、自然科学の世界では分派を嫌います。神話的ではありますが自然科学は様々な原理原則を説明できる統一的な理論への到達を志向しています。重力と天文学の理論を統一したこと、すなわち学問の橋渡しを成し遂げたことがニュートンを偉大だとする一つの理由として挙げられる程度に自然科学は集約の方向です。

 もちろん現代では科学分野が細分化し過ぎていることが課題とはなっていますが、それは思想の違いから分派したわけではなく、単純に学問が複雑化し過ぎてしまったことが原因です。

 

 経済学も同様に世界を説明するための切り口の違いで分野が細分化されている側面があるものの、そうではない側面も持ち合わせています。

 関税の論争は分かりやすい事例で、関税によって消費者負担が増して経済が停滞することは理論に基づいた事実であり恐らくそれを否定する経済学者は居ないかと思われますが、その結論の解釈に対して何を善とするかが論争の原因となっています。消費者負担が増して国家経済を失速させて自由貿易を歪める、「だから関税を上げるべきではない」、或いは国家安全保障の必要性を鑑みて「関税を維持・上げるべき」、といったような解釈の差異です。

 これは自然法則の域を超えて価値判断に踏み込んでいます。

 自然科学ではこのような善悪の判断はあまり行いません。ある物質の温度と電気抵抗の関係がどうであろうと、ある形質の遺伝率がどうであろうと、それは良し悪しではなくただそうであるというだけであり基本的に価値中立を保とうと考えます。また、それについて善悪を含めた価値判断を社会へ発信する人は科学者というよりも科学コミュニケーターや発明家、技術者など別の肩書を用いることが多いです。

 対して経済学では関税に対しても様々な経済学者がそれぞれの基準を持って善悪を直接的に発信しているように、経済学者が価値判断の領域に踏み込むことが自然と行われているように見えます。

 それそのものを否定するわけではありませんが、何を善とするかは人それぞれ異なりますので、必然的に神学論争に陥っているのではないかと、外野から見ていて感じます。

 

結言

 つまるところ経済学は思想信条を排除した集約と客観への志向ではなく思想信条に基づいた分散と主観を志向しているように見えます。

 なにも「経済科学」だけを肯定して「政治経済学」を否定するわけではありませんが、自然科学屋からすれば経済関係はどうにも畑が違うのだなと思う次第です。