忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

諦めを知らない運命論者でありたい

 少し前にバズっていた親ガチャという言葉がどうにも好みでなかったのですが、その理由を上手く説明できる自信がありませんでした。未だに曖昧で上手く表現する言葉が見つかっていませんが書いてみます。

 理屈を整理しきれていないため、今回は少し感情的な表現が多くなるかもしれません。

ただの言葉の言い換え

 ガチャという言葉自体は別に流行りものですので気にならないのですが、どうにも好めないのは人の知能や能力は親や環境によって大きく左右されるという当たり前のことをさも新しい知見であるかのように述べている点です。だからなんだよ、という気持ちが忌避感の原因かと考えます。

 親ガチャという言葉が流行した背景には科学の発展により人の知能や能力の差には遺伝的要素が大きいという証拠が多々見つかっているためだという分析があります。しかしそんなものは宿命論・運命論として遥か古代から語られてきたことであり何も目新しい知見ではありません。科学的なエビデンスが追加されただけであり、語っている内容は仏教で言えば因果やカルマ、キリスト教やイスラム教で言えばゴッドやアッラーの思し召しというものと同じです。

 「遺伝子」によって決まるというのは「神」によって決まると言っているのと意味的になんら大差無いのです。科学的エビデンスを背景にしておきながら語っている内容は宗教的世界観にまで変転しています。それがどうにも車輪の再発明に見えるということがあまり好ましいワードと思えない理由です。

親ガチャに内包されている「努力は無駄」という考え

 親ガチャを好んで口にする人の一部には「努力は無駄」という意を含んでいます。親や遺伝子、環境によって知能や能力は決まるのであり努力だって才能の一環なのだから凡夫が努力しても無駄だ、というニュアンスです。

 これもどうにも好めません。別に努力厨・努力万能主義というわけではありませんが、そもそも人それぞれ差があって当然でしょう?平等は理想かもしれませんが現時点ではそうではなく、誰しもスタートラインも違えば走る速さだって違います。努力をしてもこの能力差が埋まらないことなんて多々あるでしょう。うん、だから何?それは努力しない理由になるの?

 人それぞれ配られたカードは違うのが当たり前であり、そのカードでは勝負に勝てないからと投げ出すのか、それともブラフやポーカーフェイスなどを尽くして勝負するための努力をするかは別の話です。

ルーシー:「Sometimes I wonder you can stand being just a dog…」

「時々、どうしてあなたが犬なんかでいられるのか不思議に思うよ。」 

スヌーピー:「You play with the cards you're dealt…whatever that means.」

「配られたカードで勝負するしかないのさ…それがどういう意味であれ。」

 そもそもスタート地点や走る速度は人それぞれ違いますが、ゴールだって違うはずです。誰しもが億万長者になることを目的としているわけではないように、自分の能力の範囲内で辿り着きたいゴールを設定してそこに向けて努力すればいい話です。努力を無駄と否定することは健康のために毎日ランニングをしている人に対して「そんなに頑張って走ったってオリンピックで金メダルを取れるようにはならないよ」と煽っているようなものであり、その指摘こそが無意味です。

 目的に応じて必要な能力と努力は異なるのですから努力が無駄になるかどうかはゴールの設定次第です。だからこそ一概に努力を否定することなんてできません。

パフォーマンスは知能や学歴に依存しない

 知能や能力は遺伝的な要素が大きいことが科学的に証明されつつありますが、ではパフォーマンスは比例するかというとそうでもありません。ハーバード大学の教授が1970年代に行った調査を嚆矢として心理学者・社会学者が"科学的"な調査を行った結果、知能や学歴は業績の高さとさほど相関が無いことが判明しています。

 高い業績を挙げるのは知能ではなく行動特性であり、これをコンピテンシーと言います。どのような能力を持っているかではなくどのように行動するかが成果を分けるのです。知能は遺伝的なものかもしれませんが行動は真似することができます。努力は無駄だというのは誤りということです。

諦めを知らない運命論者

 私自身は運命論をある程度信じています。遺伝や環境に依存するものは多々ありますし、それは個人の努力ではどうにもできないことです。それこそ自然の意思や神のようなものが存在するのでしょう。

 しかしそれに唯々諾々と従うかと言われれば私はそうは考えません。私は私の出来る範囲でより良く生きることができるようゴールを決めて努力するつもりです。手の届かない範囲は運命かもしれませんが、手の届く範囲が無いわけではないのですから。

 運命論は諦めだと思われるかもしれませんが、私はその運命の中で足掻き続ける諦めを知らない運命論者であることを望みます。