忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

役に立つかではなく、役に立てればいいのに

 少し挑発的な記事タイトルになりました。

 好奇心の乏しい若者にどう好奇心を持たせるかが昨今の私の課題です。もちろん”近頃”の若者だから好奇心が無いということはなく昔からそんな若者はたくさん居たことでしょう。かつての若者であった今の大人達にだって好奇心がさっぱり無い人もたくさん居ます。とはいえ今の私が向かい合うべきは近頃の若者であるため、そこに焦点を限定して考えています。

 一応ふわっとした分析はしています。かつてのように大衆娯楽や人生そのものの選択肢が少なかった時代と比べて現代社会は娯楽や選択肢が無数にある豊かな時代です。逆に言えば選択肢が多すぎるため全てのコンテンツに付き合うことはとても出来ません。そのため現代においては自らの好みに合わせて選択的にコンテンツを楽しむことが当たり前となっています。それは自由度が高い反面、好みと思わないものに触れる機会を大幅に制限しています。興味関心がどうしても蛸壺化しやすくなっているとも言えるでしょう。

 また情報化社会によって世の中には社会的成功やその方法論が大量に出回っています。それらが使えるものかはさておき、そのせいで回り道や寄り道を好まず直接的に正解と思わしき情報を入手することが求められる時代となりました。

 以上より、近頃の若者は昔から言われていた「学校の勉強なんて社会に出て役に立たないじゃないか、やったって忘れるし学んだことなんて使ってないよ!それよりすぐに役立つ知識を学ぶべきだ!」という言葉に現実味をより感じる世代となっていると推定しています。そのため好奇心を広げるよりも自らの興味関心に対して選択的に深掘りしていく傾向にあるのかもしれません。あくまで個人的な見解ですが。

無駄になるかは自分次第

 しかしながら、学校の勉強が無駄だとか生活の役に立たない学びは意味が無いという考えは勿体無いです。未来に何が必要になるかなんて予知能力者でもない限り分かりようがありません。学びによって得られる知恵を持っていないよりも持っていたほうが想定外の様々な物事に対処できるのだから学んでおいたほうがお得です。

 さらに言えば役に立たないのではなく、役に立てていないだけかもしれません。特に義務教育で学ぶことは生活する上で必須レベルのことばかりです。役に立つからこそ義務で教え込んでいるわけで、役に立たないなんて言ったら勿体ないです。

 私個人の事例ではありますが、まず私は技術屋なので理科数学は当然毎日使っています。というよりもむしろそれで飯を食っています。海外現法や海外顧客からは主に英語で連絡が来るため英語も毎日使います。その際は地理歴史がちゃんと頭に入っているだけでスムーズにやり取りができます。例えばキプロスの新規顧客について話が来た際なら「あの政治的にややこしい島か、イスラエルの販社経由で来たからイスラム系じゃないな、じゃあEU仕様と同じでいいや。地中海の島だから潮風に曝される環境かどうか先に確認しておこう。ギリシャ語とかわかんないし細かいところは欧州現法の人に全部任せよっと」という感じです。後半投げっぱなしですが、まあ社会科が無駄にはなっていないということです。

 他にも公民現社は民主主義国家の国民として世の中を知るのに最低限必須ですし、国語は全ての土台なので分からなければ話にもなりません。体育家庭科は健康な生活を送るための下地となる知識を学ぶことができます。義務教育レベルのことは使おうと思えばいくらでも役に立てることができるのです。役に立たないと言っている大人は単に活用していないだけです。勿体ないオバケが出ちゃいますね。

 無駄な学びなんてありません、使おうと思えば何だって使えます。無駄になるかは自分次第なのです。だからこそ吸収力の高い若者のうちに様々なことを学んでもらいたいという思いでアレコレ手を考えています。どうにも上手く行かないんですけどね。

余談

 さらに言ってしまえば、学んだものではなく学ぶことそのものにも価値があります。日常で使えない学びであっても個人の人格形成に役立つのです。過去の記事でも引用したことがありますが、太宰治の「正義と微笑」における黒田先生の言葉が好みなので再度引用します。

勉強というものは、いいものだ。代数や幾何の勉強が、学校を卒業してしまえば、もう何の役にも立たないものだと思っている人もあるようだが、大間違いだ。植物でも、動物でも、物理でも化学でも、時間のゆるす限り勉強して置かなければならん。日常の生活に直接役に立たないような勉強こそ、将来、君たちの人格を完成させるのだ。何も自分の知識を誇る必要はない。勉強して、それから、けろりと忘れてもいいんだ。覚えるということが大事なのではなくて、大事なのは、カルチベートされるということなんだ。カルチュアというのは、公式や単語をたくさん暗記している事でなくて、心を広く持つという事なんだ。つまり、愛するという事を知る事だ。学生時代に不勉強だった人は、社会に出てからも、かならずむごいエゴイストだ。学問なんて、覚えると同時に忘れてしまってもいいものなんだ。けれども、全部忘れてしまっても、その勉強の訓練の底に一つかみの砂金が残っているものだ。これだ。これが貴いのだ。勉強しなければいかん。そうして、その学問を、生活に無理に直接に役立てようとあせってはいかん。ゆったりと、真にカルチベートされた人間になれ!

 私の考えよりもよっぽど深いので、この引用だけで充分な気がしてきました。