人生を安全に運転するためにも、前を向こう。
習慣の中毒性
何かしらを継続するにあたり習慣化はほぼ必須です。意志の力だけで物事を継続しようとしても、それができるのはほんの一握りの才ある人のみです。普通の人はそこまで強靭な精神を持っていませんので、オートマチックな仕組み、精神力に頼らない方法としての習慣化をすることが重要になります。
ただ、自動化された習慣には一つ明確な弱点があります。
それは止め時を見失うことです。
日々の可処分時間を捻出するためには不要となった習慣を止めなければなりませんが、自動的となった習慣は意志の力を不要とする代わりに意志の力ではなかなか止めることができなくなります。たとえ利得よりも損失のほうが多いと分かっていてもつい継続してしまいがちなものです。
そもそも論として、生物は安定を一つの快楽として認識します。
食事や睡眠などに快楽が伴うように、生物の本能は「そうしたほうが良い」行動や状態を快楽と判定します。安定もそのうちの一つです。人間はつい安定を「退屈なもの」と理性的に考えがちなものですが、天敵の存在や日々の糧の心配は野生生物にとって切実なものであり、野性的な本能は安定を求めています。
つまり、人は習慣化した行動を取ることを本能的に楽しいと感じます。
不安定な状態を好む人もいますが、それは多くの場合、常に不安定を望んでいるのではなく安定と不安定を交互に経験することで安定の快楽を繰り返し得ることが動機です。もしくは安定があるからこそ不安定も楽しめる、そう言えるかもしれません。
なんにせよ、喫煙や飲酒が止め難いように習慣は快楽であり、そして快楽には中毒性があることは理解が必要だと考えます。
勿体ないと思うからこそ
とはいえ習慣を止め難いのは中毒的特性のみが原因ではなく、ある種の認知バイアスも作用しています。
代表的なものはサンクコストバイアス、あるいはコンコルド効果でしょう。
詳細は専門書を読んでいただくとして、大まかに言えばすでに支払った費用やコストによって合理的な判断ができなくなってしまう現象を指す言葉です。投資で失った資産を取り戻そうとする気持ちや、退屈な映画をお金を払ってしまったからと見続けるような心理状態が典型として例示されることが多いかと思います。
習慣にもサンクコストバイアスは生じます。
何かしら目的があって行われた習慣化のはずが、時間の経過に伴い習慣を継続することに目的がすり替わってしまう、そんな事態は日常茶飯事です。
今までやってきたことを止めるのは勿体ないと思う気持ちや、物事を継続すること自体は善であると考えるフレーミング効果、せっかく続けているのだから良いことがあるのではないかと期待する楽観のバイアス、投じてきた金銭的・時間的コストに対する必要以上の責任感、それらが入り混じって意思決定を曲げていきます。
とはいえ、無目的になった習慣はさっさと止めてしまったほうが健全です。残念ながらすでに投じたコストは回収できません。金銭的・時間的コストを垂れ流し続けるほうが勿体ないですし、別のことへコストを支払えない状態は機会損失ですらあります。
サンクコストバイアスを回避するのは意外と簡単です。
サンクコストバイアスが生じる心理的要因を反転させればいいだけです。
例えば勿体ないと思う気持ちに対しては今後の効果が見込めない習慣を続けることのコストや機会損失コストのほうが勿体ないと見方を変えればいいだけですし、物事において重要なのは継続ではなく”結果”であると意識を変えればフレーミング効果を回避できます。楽観も習慣を止めることへの楽観へと重点をずらせば容易ですし、責任感だってやはり見方を変えて”結果”に対する責任へと置き換えれば責任感が強い人ほどサンクコストバイアスを回避しようとできるはずです。
つまるところ、結局は物事のどの側面を見るかのフレーム次第に過ぎず、凝り固まった思考を解して多面的に物事を見るだけでいい話です。そして凝り固まった思考を解きほぐすには「そう考えればいい」というきっかけさえあれば簡単にできます。
過去との向き合い方
フレームやきっかけの話で言えば、「過去を振り返る」行為に重きを置かない発想、これが重要だと考えています。
人間の過去とは究極のサンクコストです。それまでに費やしてきた費用やコストの回収余地は現在と未来の行動如何であり、過去からは直接回収しようがないのですからサンクコストだと言えるでしょう。
もちろん過去を見て見ぬふりをすることを推奨するわけではありません。自らの振る舞いや行いを見直して適宜改善することは必要であり、過去を振り返ることは大切です。
ただ、過去を振り返る時に上体を捻って振り返ったり全身で振り返るようなことはどうにも推奨しません。それはサンクコストに目を奪われている状態に他ならず、回収余地のある現在と未来に注力できなくなってしまう行為だと考えます。
つまり「過去を振り返る」とは時間を掛けて重々しく振り向くのではなくバックミラー越しにチラ見する、そのくらいの温度感が良いでしょう。
見ないわけではなく、しかし見過ぎない、適宜チラチラ見つつも基本は前を向いて進む。
車を安全に運転することと同様、人生もきっとそのくらいのスタンスがちょうどいいと思っています。
結言
凝り固まった頭を解すためにはきっかけとなる情報が必要であり、そうやって情報を用いて頭を解していくことが教養なのだ、教養とはCultureであり、そしてCultureとは土地の耕作を意味する言葉でもある、つまり教養とは様々な情報を学んで頭を耕して思考を柔らかくすることなのだ、といった話にまで発展すると長くなり過ぎますので、ここらで終わりにしておきましょう。教養に関してはこのブログで過去にも散々語ってきたことですし、チラ見する程度で止めておくのが無難です。