「お前の敵は誰なんだ」
「よく聞けトルフィン お前に敵などいない 誰にも敵などいないんだ」
「傷つけてよい者など どこにもいない」
幸村誠『ヴィンランド・サガ(2)』
35歳を超えて敵がいないということは、人間的に見込みがないことである
野村克也
唐突に相反しそうな言葉を引用してみましたが、喧嘩を売る相手を探して彷徨っているような人が巷やSNSを闊歩するこの世の中において、そもそも敵とは何なのかを考えてみることには意味があると思いますのでちょっとばかり考察してみましょう。
敵とは
敵(てき)とは多義的な言葉であり、物事において当面する相手、恨みをもって立ち向かう相手、自分に危害を加えようとしてくる相手、目的の阻害要因となる相手、スポーツなどでの競争相手、異なる意見を持った対立相手、などなど様々な意味を持っています。
この言葉をややこしくしているのは恨みや憎しみの有無に関して不明瞭な点でしょう。同形異音語の敵(かたき)が恨みをもった相手を指す言葉であるのと同時に商売敵のような単純に競り合う相手をも意味しているように、敵とは必ずしも恨みや憎しみを含んだ概念ではありません。
冒頭で引用したヴィンランド・サガで対象としている敵とは恨みをもって立ち向かう相手を指しており、故野村克也氏の述べる敵とは恨みや憎しみの感情が必須ではない競争相手や対立相手を指しているものと言えます。そう捉えればこれらはなにも相反する見解ではないでしょう。
人は成熟していけば個として確立していくものであり、そうして確立された個性や能力、人格や意見は必ず他者のそれとは差異が生じるものです。差異があるからこそ個として確立したと言える以上、これは必然です。
よって確立された個同士では必ずズレによる競り合いや対立が生じます。それが生じない人は故野村克也氏の言う通り人間的にまだ成長していないとすら言えます。しかしそれは恨みや憎しみを伴う必要はない敵です。だからこそ「傷つけてよい者など どこにもいない」でしょう。
敵であれば傷つけていいのか?
敵とは必ずしも恨みや憎しみを必要とする相手ではないこと、これはとても重要だと私は思っています。
人生において敵は生じるものです。まったく敵がいない人生とはすなわち個の無い人生であり、そういった道を歩む人は僅かです。多くの人は自らの個性を確立し、それに応じて敵も生じます。
しかしながらその敵は「傷つけてよい相手」とは限りません。もちろん親の仇や危害を加えてくる相手など恨みや憎しみを有する相手であれば話は別ですが、そうではない敵のほうが主流です。ただ競り合う関係であったり、ただ意見が対立している相手であったり、ただ目的の阻害要因となっている相手であったりするだけであり、それは「傷つけてよい相手」ではありません。ただ差異があるだけなのですから。
結言
敵であれば傷つけてよい、と考える人が世の中にはいくらかいらっしゃるようで、意見の対立相手や競合相手を敵と認定して悪し様に罵ったり人格を否定したりする人を見かけることがありますが、あまり適切な振る舞いではないと私は考えます。
それはただ意見が対立していたり物事が競合しているだけに過ぎず、相手は敵ではありますが、恨みや憎しみを持つ必要はない”ただの敵”です。
その相手へ恨みや憎しみを感じるのだとすれば、本当は誰にも敵はいないというのに自らの心が敵(かたき)を生み出しているに過ぎません。