忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

「ナチスは良いこともした論」と「ヒトラーに例える論証」

 

 詭弁VS詭弁。

 

 私は安全工学的観点から「ヒューマンエラーを起こさない人間なんて存在しない」と考えています。どれだけ賢い人間であっても常に正しいことをできるわけではなく、時には誤ったことを述べてしまったり間違えた選択をしてしまうものです。

 よって物事や言説は誰が言ったかではなく何を言ったかを是々非々で判断すればいいと思っています。これ自体は世間的にも普通の見解で、「あいつは気に入らないけどこれには賛成」「あの人は好きだけどこれには反対」といったことは当然あるでしょう。

 

 ただ、そういった是々非々の意見を持つことに対して次のような反論を先日見かけました。

 「それは”ナチスは良いこともした論”であり詭弁だ

 見かけたのはトランプ大統領の大統領令に対して限定的に同意するコメントやフジテレビの不祥事に対してフジテレビを擁護するコメントに対してです。

 

 言い分は分かりますが、どうにも同意しかねます。

 2つほど理由がありますので順に説明してみましょう。

 

絶対悪の意義と問題

 ナチスは良いこともした論は典型的とまでは言えないものの時々ネット上で見かける言説です。

 この言説は2023年に出版された『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?』でも批判されている通り、ナチスがしたとされる良いことは事実の面からしてほぼ誤りです。またこの本で語られているように個々人の価値観や意見をもってナチスの良いところを語るよりはナチスを「絶対悪」と定義したほうが社会の「歯止め」としての意味があるとする見解にも一理あると思います。

 

 ただ、私は当ブログでも度々述べてきたように何かしらを絶対悪と定義することはリスクを伴う考え方だと認識しているため、全面的な同意は難しいです。

 その定義は悪性を全て他所に押し付ける理屈であり、必然的に何かしら”以外”を絶対善としなければ成り立ちません。押し付けられる限り全ての悪を押し付けてこその絶対悪です。

 その結果、絶対悪と対立する人は自身の言動が何もかもが許容されると誤認するようになります。相手は悪でこちらは善だから正しい、悪に対してであれば罵言や暴力を振るうことも許される、だって相手は悪でありこちらは悪ではないのだから、そういった認識です。

 しかし人間は必ず間違える生き物であり、誰だって誤った選択をすることがあります。その際、絶対悪を他所に定義する人は自らの過ちを認められません。それを認めると何かしらを絶対悪として自らの行為を正しいとした論理の根底が崩れてしまうためです。

 必然、何かしらを絶対悪と認定する人は自分の誤謬や誤りを受け入れられずに暴走することになります。それはなんとも、望ましくない末路です。

 よって私はナチスを絶対悪のメルクマールとするよりも「ナチスは良いことをもしかしたらしていたかもしれないが、それを考慮してもナチスは悪い」とすることが妥当な落としどころだと思っています。0-100で押し合わずとも1-99はどう考えても悪いのですから。

 

詭弁VS詭弁

 『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?』は良書ですが、この本の名前を出して「不祥事を起こした〇〇〇、或いは世間的に批判を集めている〇〇〇を擁護するのは”ナチスは良いこともした論”だ」とするのはちょっと問題です。

 この本はナチスを擁護する言説の誤謬を事実を基に否定している書籍であり、ナチス的なものをひっくるめて批判しているわけではないためです。

 

 もっと率直に言ってしまえば、ナチスでないものに対して「ナチスは良いこともした論」とレッテルを貼る行為は明確に詭弁の「ヒトラーに例える論証」に該当します。

 ヒトラーに例える論証とはその名の通り、対立相手をヒトラーやナチスに例えることで相手の信頼性を貶める詭弁・印象操作です。

 つまり論理的に正しくありません。”ナチスは良いこともした論”だと批判するためにはまず相手がナチスと同じであることを論証してからでなければならず、そうでなければただの詭弁・印象操作の域を出ません。

 言いたいことは分かりますしやりたいことも分かるのですが、議論で安易に使っていいツールではないと思います。詭弁を持って相手を詭弁だと批判するのは、なんというか、話がややこしくなりますので。

 

結言

 ”ナチスは良いこともした論”はナチスに関する言説限定のものであり、そこまでオールマイティではないので気を付けたほうがいいです。これを安易に振り回すと「ヒトラーに例える論証」の詭弁に陥ることとなります。