忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

『豊か』とはどのような状態か:余剰があるよりも大切なこと

母「高校の同窓会の写真が友達から送られてくるけど、そこに写っているのは皆今でもキラキラ働いている人ばっかりなの」

父「まあ、この歳になると元気がある人しか参加してないからだろうな」

母「私は学校を出てからすぐに結婚して専業主婦になったから、バリバリ働いてキャリアを積んでいる同年代の人を見ると少し悲しくなっちゃう。人生の成功者って感じがして」

私「別にバリバリ働いている人だって誰もが幸福なわけでもなし、隣の芝生って青いものだから比べても意味が無いと思うけどなー。それに静かな土地で穏やかに過ごすのも充分良い人生じゃない?健康は維持できてるし、子ども3人もまあ立派かどうかはさておき元気に巣立ったんだしさ」

母「そうかもしれないけど、やっぱり比較するとね。こないだも、下の娘ちゃんから「お母さんって毎日近所の人と話して色んなものをあげたりもらったりして、『どうぶつの森』みたいな生活してるよね」って言われちゃって」

私「それは幸せなことだと思うけどなー」

 

豊かさの種類

 人が人生で追い求める幸福の一つは豊かさです。誰も困窮などは望んでおらず、豊かになることこそが個人や社会の持つ明確な指向性と言えます。

 ただ、留意すべきは豊かさの種類です。豊かで幸福な状態は単一だというアンナ・カレーニナのような考えには囚われず、異なる様々な豊かさがあることを理解する必要があります。

 『豊か』を辞書で引けば、次のような意味が出てきます。

  • 満ち足りて不足のないさま。十分にあるさま。
  • 経済的に恵まれていてゆとりのあるさま。
  • 心や態度に余裕があって、落ち着いているさま。

 豊かさと言っても複数の形態があることが分かります。

 

 何百億円も資産を持ち、都心に大きな家を持って豪奢な暮らしをするのも豊かさです。都会から離れて山村や海辺の町で心穏やかに余裕を持って暮らすのも豊かさです。

 これらは明確に相反する状態ではありますが、どちらも正しく豊かであると言えます。

 

余剰があることよりも大切なこと

 『豊か』と聞けば私たちは有り余るほどの余剰を想像してしまいがちですが、実際は語義通りに満ち足りて不足のないさまであることが肝要です。

 もちろん、経済的に豊かで、かつ心や態度に余裕がある状態が理想的な豊かさでしょう。

 しかしどれだけの資産を持っていようと「心が落ち着かない」と思えばそれは豊かではありませんし、どれだけ穏やかな生活をしていようと「金銭に不足がある」と思えばそれはやはり豊かとは呼べません。どちらも満ち足りていないのですから、豊かという言葉が適用されない状態です。

 それはつまり、必要なものがたくさんあるよりも足りないものがない状態こそが豊かさなのであり、不足があると思う心こそが豊かさを損ねる原因に他ならないのでしょう。

 

結言

 つまり足るを知ることが豊かさを得るために必要だと思われます。

 『足るを知る』とは「今あるものに満足しなければならない」と自己暗示を掛けるようなことではなく、努力によって得られたものに満足をするという意味です。現状追認主義に陥るのではなく、より求めるのであればより自己の研鑽を図ることを推奨する言葉だと認識しています。

 頑張って手に入れたものに満足できること、不平不満が存在しないこと、それはまさに豊かで幸福な状態でしょう。

 つまるところ、老子の言う通り知足者富(足るを知るものは富む)ということです。

 

 日常のアレコレに心を配り、ご近所さんと日々雑談をし、ちょっとした頼み事をしつつ頼まれつつ、余ったものや良いものを送り送られる『どうぶつの森』のような生活。

 それは充分以上に豊かな人生だと私は思うのです。そこに不足しているものなんて、この世にはそうそうないのですから。

 

 

余談

 私の母は混雑よりも静穏を好み、変化よりも安定を好み、敵対よりも愛情を好む人なので、東京でバリバリ働く生活には多分1年も耐えられないと想像しています。世間で成功者と呼ばれるような人々の生活は「手に入れても幸せにはなれない」ものの典型かと。

 人はつい「あれも欲しいこれも欲しい」と足らぬ気持ちを持ってしまいがちなものですが、手を伸ばす前にそれを手に入れたら幸せになれるかどうかを先に考えたほうがいいのかもしれませんね。