忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

知能と知識、そして見識

 

 ”頭の良さ”に関する雑感。

 

知能と知識

 知能とは物事を理解する力であり、知識とは知った物事の内容です。

 立派な学校を卒業していても道理を弁えない人がいるように、学は無くとも鋭い洞察力を持つ人がいるように、知能の高低と知識の多寡は明確に別物として扱う必要があります。

 雑に例えれば、知能とはハードウェアのスペックであり、知識とはソフトウェアのパフォーマンスです。ハードウェアに偏重していてもその高スペックを活用し切れませんし、ソフトウェアに偏重していてもやはりそのパフォーマンスを生かし切れません。バランスが大切です。

 同様に知能と知識はそれぞれが補完し合う関係であり、片一方に偏重した状態は健全ではありません。バランス良く鍛えるのは難しいことですが、より良く生きるためにはそれぞれが適度に調和を保つ必要があります。

 『無知は至福』と言えども社会生活に支障が出るほどの無知では困りますし、かといって世界最高の頭脳を持たなければ幸福になれないわけでもありません。自分が持てる最高の状態を維持することが最適です。

 そんな最適の状態を保つこと、すなわち『足るを知る』ことが肝要になるでしょう。『足るを知る』ためには足り過ぎ足らな過ぎの双方を避けなければならないのですから。

 

無知を笑う無知

 もちろん要領よく広範囲の知識を得るためには優れた知能が役立ちますので、知能と知識には当然ある程度の相関が生じるでしょう。

 しかしそれらは因果関係ではなく、高い知能を持ちつつも学ぶ機会を得られなかった人もいれば、与えられた学びの機会を生かせるだけの知能を持っていない場合もあります。

 そもそも誰もが全方位に深い知識を持つことは現実的ではありません。神ではないのですから全知は不可能です。世界最先端の物理学を切り開く研究者が美容用品にまで詳しいとは限らないように、誰しも何らかの専門性を持ちます。

 よって知識の不足を卑下したり嘲ることは不適切であり、知識の有無で知性の高低を判別することは明確に誤りです。それは無知ではありますが無能とは限りません

 辛辣ですが、他者の無知を嘲笑う人こそが無知と呼ばれるべき存在だと言えます。

 

見識

 ”頭の良さ”を比較する時、私は「知能の高低」や「知識の多寡」よりも「見識の深浅」を見ることが妥当だと考えています。

 見識とは「物事について鋭い判断をもち、それに基づいて立てた、すぐれた考え・意見」を意味する言葉です。どちらかと言えば知能に近い言葉ですが、判断のためには知識が必要でもあります。

 すなわち見識の深浅には知能の高低と知識の多寡が同時に現れます。深い見識は高い知能と豊富な知識が不可欠であり、他者の”頭の良さ”を判別するには最も分かりやすい指標となるでしょう。

 ただ様々な思索を巡らせるのではなく、ただ知識を披露するのでもなく、優れた意見を述べられる人こそが真に頭の良い人です。

 

結言

 要は論語にあるように「子曰く、学びて思わざれば則ち罔(くら)し、思いて学ばざれば則ち殆(あやう)し。」であり、頭を使うこともお勉強することもどちらもバランス良くやって深い見識を得ましょうというだけの話です。