忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

無知への謙虚さ

 

 私たちは日々様々な情報に触れています。

 しかしそれらは世界に存在している情報量からすれば極めて僅少なものに過ぎません。

 よって私たちは知っている情報を基に物事を判断することよりも知らない情報があることを前提として思考をしたほうが適切な場合が多々あります

 

私たちはどれだけ知っている?

 一例として警察の話をしましょう。

 全国ニュースで警察の不祥事が時々報道される度、まるで日本の警察はダメな存在だとする言説をよく見かけることになります。

 これは典型的な誤認です。

 私たちはその不祥事に関係した警察官の情報をニュースによって入手しますが、約30万人が所属する巨大組織である警察の全貌、そして警察職員の全員を知っているわけではありません。

 つまり入手した情報よりも入手していない情報のほうが遥かに膨大であり、膨大な無知領域を無視して組織全体の是非を判定することは論理的に不正確な判断だと言えます。

 

 そもそも入手できる情報にはニュースソース自体のバイアスが掛かります。

 警察官の悪い情報はニュースバリューが高いため全国区で報道されやすくなります。対して警察官の良い情報はニュースバリューが低いため相当なグッドニュースでなければせいぜい地方紙に載る程度です。

 つまり私たちが目にする警察の情報は自然と悪いものばかりになるため悪印象を持ちやすくなっており、そしてその悪印象は「警察はダメな存在だ」とした認知を引き起こします。実際には組織全体の全容、価値判断に必要な情報をまったく把握していないのにです。

 

無知への謙虚さ

 もちろんありとあらゆる全ての情報を入手した後でなければ価値判断をしてはいけない、などと言うつもりはありません。どのような物事であってもそれは不可能であるため、私たちは得た情報からの推論によって価値判断を行わざるを得ません。

 ただ、その価値判断をするための天秤、推論の土台には「得た情報」の他に「得ていない情報があること」を載せる、入手した情報だけで物事を考えるのではなくそれ以外の広大な無知領域が存在することを認識する、そういった心構えが正しい価値判断には必要です。

 そうでなければ砂漠の真ん中にあるオアシスで「ここには水も植物もある、だからこの周囲は全て肥沃な土地だ」と理解するような誤認をしかねません。

 

 これを言い換えれば、無知への謙虚さです。

 正しく物事を判断するためには、たとえ数多の情報を持っていたとしてもそれでもきっと私は知らないことばかりだろうと思う謙虚な気持ちが必要となります。「私は全てを知った」と思う傲慢さこそが判断の誤りを引き起こすのですから。

 

結言

 無知は悪ではありません。

 よって無知を恐れる必要はありません。

 恐れるべきは自身が無知であることへの理解不足、そして己が無知ではないと思う傲慢です。

 そのことへの認識さえあれば、不十分な情報に基づく誤った価値判断をすることへの防波堤を持つことができます。