生物は人生において満足を追い求めます。様々な欲求を満たし、足るものを得ることこそが多くの場合で幸福への道です。それは湧き上がる欲求を可能な限り満たし続ける加算式の方法でもいいでしょうし、あるいは湧き上がる欲求そのものを抑制して満たしやすくする減算式の方法も取り得ます。
ただ、いずれにしても不満を遠ざけて満足を追い求めること、満ち足りることこそが生物にとって重要な本能的行動です。
不満そのものは悪ではない
では満足こそが至高のもので不満は不要な存在かと言えば、そうとも限りません。人は不満を感じるからこそ新たな行動を取り、新たな発見をし、より発展的で高いところへ向かうことができます。満足を集めるための原動力として不満は必要なものであり、必ずしも不要な存在ではありません。
なにより、物事は「陰と陽」「静と動」「無と有」「不幸と幸福」のように互いに対となる事象・概念に依存しているものです。よって不満があるからこそ満足があり、不満を持たない人間は満足を持つこともできません。不幸を知らない人間が幸福を理解できないように、そして苦しみを知らない人間が楽しみを得られないようにです。
だからこそ不満は必ずしも不要で忌避すべき存在とは言えません。
不満をどう取り扱うか
とはいえ不満が積もり積もっては健康に宜しくありません。生物は満足を得る必要があり、満足が得られていない環境では心身に悪影響を受けます。
つまり、不満が存在していることそのものは問題ではありませんが、心の器が満たされるほど不満が蓄積されている場合は問題になります。
人の心の器は有限で、個人差が大きいものです。器の大きい寛大な人もいれば些細なことで器から溢れてしまう狭量な人もいます。
しかしながら重要なのは器の大小ではなく、自らの心の器を掌握し、溢れないようにすることです。
イメージとしては、コップに氷と水を入れるようなものです。
コップは器、氷は不満であり、水は満足です。
氷が多過ぎると水を入れる余地がほとんど無くなってしまいます。そして温かい水をコップに注ぎこめば氷は解けていき、不満の解消が満足へと変わるのと同様、水へと変わっていくでしょう。
結言
不満の許容量は心の器に依存します。
不満で心が満たされてしまうと、満足を得ることは叶いません。
不満の解消はそれ自体が満足へと繋がるものです。
よって不満を忌避するのではなく、しかし不満で心が満たされないよう逐次溶かしていくこと、それが肝要です。