羞恥心、いわゆる恥というものは誰もが感じる一般的な感情です。
人が恥を感じるのは様々な状況がありますが、何を恥に感じるかは個々人で大きな差異があります。人前で何かを発表することを恥じる人もいればまったく気にしない人もいます。感情を表すことを恥ずかしいと思う人もいれば豊富な感情表現を好む人もいます。
心理学者の菅原健介教授によれば、羞恥心が生じるのは「他者から期待される役割やイメージからの逸脱」だということです。人は社会的動物としての本能で、所属する社会から排斥されないよう公的な自己像からの逸脱をコントロールしようとするため、周囲からの期待や信頼に背くようなギャップが発生した時に生得的な警告反応として羞恥心が沸き起こります。
恥は文化にも大きく依存します。例えばキリスト教圏での恥(shame)は何か悪いことをしたり人から恥辱を受けたときに感じるものであるとされ、罪悪感(Guilt)と強く結びついた概念であるとされています。日本ではそのような悪事や恥辱による恥ずかしさの他にも、”はにかみ”のように他者からの注目を集めたり褒められたりすることでも発生します。海外で発生しないというわけではないですが、このような恥ずかしがり(シャイ)は内気であるとして否定的なニュアンスを持ちます。ルース・ベネディクトの「菊と刀」において語られたように日本は恥の文化であり、恥と感じる行為・対象が多く、またそれを謙虚さの表れとして美徳と考える場合が多いです。
しかしどのような場合・文化圏においても周囲と自己の認識、集団の中の自己という認識が恥という感情を生み出していることには違いありません。極論、周囲の視線というものをまったく無視してしまえば恥を感じることは無くなります。
警告反応は必要
恥ずかしいと思うこと自体はまったく悪いことではなく、むしろ必要かつ重要なものです。恥は周囲と自己のギャップを認識するために必要な警告反応であり、それを無視してしまっては「恥知らず」となって社会から排除されるリスクが高まるだけです。
もちろん恥ずかしい思いをしたくないという気持ちも当然のことではありますが、平穏な生活を望むのであれば恥が発する信号は無視するべきではなく適切に取り扱うことが必要です。過剰に嫌がらずほどほどに付き合うのが良いでしょう。
自己分析
どのような状況下において恥を感じるかは実に人それぞれです。いつ・どのような時に恥を感じるかを考察すると自己をメタ的に分析することが出来るのではないかと考えています。
例えば私の場合であれば、人前で何かを発表したり一席ぶつようなことは恥ずかしいと思いません。自身のロジックに一定の自信を持っており反論をそこまで恐れていないこと、反証はロジックの補強や修正に繋がるためむしろ歓迎的であること、失敗してもアドリブで乗り切れるという自信と経験があること、というような理由が付けられます。
反面、人に自身を売り込むことは極めて恥ずかしいと感じます。自己PRは素面ではとても出来ないのでついおちゃらけてしまいますし、人に褒められるのも苦手です。ブログにおいても「読者登録をお願いします」のような売り込みができません。読者登録ボタンもブログの下のほうにこそっと置いている始末です。
前者のみであれば自信家という想定ができますが、後者からは反対の印象を受けることかと思います。
これらをまとめて考えると、プライドが高く、失敗を恐れる臆病さがあり、自分に自信が無く、自信が無いからこそ物事に相対する時はカッチリと事前準備して作り上げるタイプで、自信と経験に裏打ちされた物事に対しては調子に乗って増上慢になる幼稚さがある人間だと分析できます。ん、思った以上にこいつは嫌味な奴ですね。
他にも私は自らを吝嗇だと感じること、ケチだと人に思われることをもの凄く恥ずかしいと感じます。そう思われるくらいならいくらでもお金を出しますし奢ります。これもやはりプライドが高いのが原因でしょう。プライドを維持するためであれば金銭の浪費を厭わないというのは実に改善すべき悪癖です。
後は、人に馬鹿にされるのは恥ずかしいですが、人前で馬鹿なことをするのは好きです。・・・わがままかな?
このように自らが恥を感じることを見直すと自身の強みや弱みを見つけやすくなると考えます。あまり楽しい自己分析ではありませんが、「なぜ自分はこれを恥ずかしいと思うのか」と考えてみると意外と役に立つかもしれません。せっかく備わっている警告反応ですのでぜひ活用していきましょう。
まとめ
恥は社会的に必要な警告反応であり、意識的にせよ無意識的にせよその警告を適切に受け取ることは自身の為になるものだと考えます。恥ずかしい思いを積極的にしたいという人は少ないとは思いますが、上手く付き合えば役に立つ感情です。