忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

生きている意味という問いに悩んでみる

 直球の記事タイトル。

 私は不真面目な人間ですし頭も良くないので生きている意味をあまり深く考えたりはしないのですが、たまには少し真面目に考察してみましょう。

 この問いに関する答えは人それぞれ多種多様であり、意味を求める人もいれば求めない人もいるでしょう。万人に適用できる正解は無いと思いますので、異論反論大歓迎です。

そもそも意味とは

 まずそもそも意味とはなんでしょう。

 自然的な視点で考えれば生きていることに意味はありません。そのように生まれ、そのように死ぬ、それは自然の理であり、意味も何もないでしょう。ただそういうシステムであり、そうであるというだけです。存在や物事に意味というラベルを人が貼っているだけであり、そのラベルを剥がしてしまえば「そうあるからそう」としか言えません。神様の視点では意味があるのかもしれませんが、それもまた私たち人間が測り得るものではないと考えます。

 とはいえこの視点を突き詰めていくのは論旨から逸れる気もします。この問いは人にとっての意味が問われているものですので、人にとっての意味、人にとっての答えが必要です。

 後世に価値を残すことが人の生きている意味だと言えるかもしれません。しかしカントが言うように絶対的価値である人格を除いたその他の全ては人による相対的価値であり、相対的である以上その価値は時と場合によって揺らぐものです。今現在価値があるとされるものでも将来的には無価値や有害になることは考えられます。よって価値を基準としては曖昧なものになってしまうでしょう。

 存在の記録を残すこと。生きている意味としてはこれが一番実際的でしょうか。個としての自らが確かにこの世に存在したのだという足跡を遺すことが、生きている意味の説明として一般化し得るものだと考えます。

時間の幅をどう取るか

 足跡を遺すことが人の生きている意味だとすれば、遺す時間の幅を決めなければいけません。足跡の意味合いは時間の幅次第でまるで変わってきます。

 無限大の時間幅を基準とした場合、何億年以上も先の世界に人が足跡を遺すことなんてとても出来ないでしょうから、人の足跡などまったくの無意味です。

 1000年くらいとすれば相当な偉人であれば辛うじて足跡を遺すことが出来るでしょう。

 100年程度であれば偉人とまでいかない人でも足跡を遺すことが可能です。

 10年程度ならば物質的な記録だって残すことが出来ます。

 1年以下であれば足跡を遺すことはほとんどの人が出来るでしょう。

 つまるところ生きている意味としての足跡を遺すという行為は、どれだけ長く足跡を遺すことを欲するかによって難易度がまったく異なります。

 私のような先を見越す目も知恵も持たないアッパラパーな人間は1年先どころか明後日だってそんな先のことは分からないので、遠い未来に足跡を遺そうとは考えもしません。むしろ手の届く範囲になるよう時間幅⊿tをなるべく小さく、そしてその時点での傾きや変化率を大きくするように努力するので精一杯です。

 それこそ何億年も先に足跡を残すことなんて誰にも出来ませんので、そうであればむしろ遠い未来にどんな足跡を遺すかに苦心するよりも、今ここでどんな足跡を付けられるかを考えたほうがワクワクして楽しいんじゃないかと考えています。先のことを考えない愚者だと笑う人もいるでしょうが、賢者でなければ足跡を遺せない、というわけでもない、ということもまた事実だと思うわけです。

なんのために生まれて なにをして生きるのか

 唐突ですが私は子供の頃からアンパンマンが大好きで、未だにアンパンマンのマーチが頭をよぎることがあります。さすがにいい歳をして大きな声で語るのは恥ずかしいので人には語りませんが、今でも理想のヒーロー像はアンパンマンです。彼の神髄はばいきんまんを倒すことなんかではなく、自らが弱体化してでも無辜の他人の空腹を満たす無償の愛と自己犠牲だと信じています。

 そしてアンパンマンのマーチにおける歌詞こそが生きている意味を考えることに繋がると考えています。どれだけアンパンマンが好きなんだとツッコまれそうですが、まあ好きなものは好きなので仕方がないですね。

何のために生まれて なにをして生きるのか

なにが君の幸せ なにをしてよろこぶ

 この歌詞に対する私の答えはとても単純です、子どもの頃からずっと考えていたので即答できます。

 私は人の役に立つことが幸せだと感じます。頼まれたことを処理したり困っている人を助けたり、学んできた技術的な知識を生かして人の役に立つモノを作る仕事をしていることが今の喜びであり、それが生きる意味です。そのような生き方は決して長期的な足跡を遺せるものではありません、せいぜい製図した図面の署名に数十年名前が遺れば上等で、100年先の歴史書に載るような偉人になることはないでしょう。そういうのは世に大勢いる頭の良い人に任せることにします。

 私は短い時間しか遺らないとしても手の届く範囲で人の役に立つ足跡を遺すことを目指していて、それが私にとっての幸せであり、生きている意味だと考えています。

結論

 やはりこの問いは人によってまったく答えが変わりますね。短い時間を嗜好する人は今この時を重視し、長期を求む人は大きな偉業を成すために未来を見ます。さらに遠い永劫を覗く人はその無意味さを悟るのでしょう。それらに正しさは無く、問い自体の意味もない。だからこそこれは面白い問いですし、いつまでも問われ続けるのでしょう。意味は無くても、それに答えることはその人にとって価値があるゆえに。

 

余談

 "自己犠牲が過ぎるために燃え尽きる愚かなお人好し”という表現をwebメディアで見かけて、なんとなく嫌だなと思ったので理由を考えていた結果こんな記事になりました。

 無償で人に何かを与えることは確かに自己犠牲的だとは思いますが、その自己犠牲と人の役に立つことこそが喜びであり、決して我慢して無理にやっているわけではない人間もいます。アンパンマンのような生き様でありたいと望み生きる人間だっているのです。それを愚か者と嘲笑うのは勝手ではありますが、愚かで何が悪いんだと反論するのも勝手にさせてください。

 もちろん我慢して人に与えるようなことはすべきではありません。人は自らが思う喜びのために生きるべきであり、我慢はその対極にあるものです。自らの喜びとなることこそが人の生きる理由でありそのために生まれてくるのだと、私は単純に考えています。