忘れん坊の外部記憶域

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時には無名の英雄達に賞賛を~有事の英雄と平時の英雄

 事故、災害、戦争、政治的混乱、そういった有事の際、人々はそれを解決する人を英雄と呼んで誉めそやします。優れた力や技術を持ち、誰かを救い、悪役を打ち倒す存在が英雄・ヒーローの定義であり、有事を解決して皆を救う人を英雄と称えることに異論は出ないでしょう。

 ただ忘れて欲しくないのは、英雄的活躍をしている人々は有事以外にも存在するということです。

 

想像力の問題

 先日の記事でも取り上げた2020年における安倍首相とメルケル首相の対比について人と話していた時に言われたことが気になっています。

ナラティブの活用とその行使への躊躇

 さらに例を挙げれば2020年のコロナ禍における安倍首相とドイツのメルケル首相の対比が分かりやすいものでした。日本はコロナによる死者数がドイツに比べて桁違いに低かったにも関わらず、コロナ禍への対応で評価を得ていたのはドイツのメルケル首相でした。これはメルケル首相が国民に語り掛けた「苦難の共有と団結」「人々の努力への感謝」「愛」という物語が世界の人々の心を打ったためです。

「海外ではこういう有事の際に英雄的な人物が現れて活躍するが、日本ではあまりそういう人が出てこない。そういう人がいないのに日本でコロナの被害が少ないのは偶然に過ぎない」

 これは悲しいまでの想像力の欠如です。人前に立って活躍をする有事の英雄が出てこないことと英雄が居ないことは同義ではないからです。

 確かにドイツのメルケル首相や台湾のオードリー・タン大臣のような英雄的活躍によって話題となる人は居ます。しかし、日本に限った話ではありませんが、コロナ禍において賞賛されるべきはこういった有事の英雄ばかりでなく、感染リスクを抱えながらも仕事を続けた医療・介護・福祉・保育・インフラ・小売といった業界で働く人々でもあるべきです。

 さらに広く言えば、混乱においても社会が止まらないよう働き続けた全ての人々が英雄的活躍をしたと言えます。彼らは無名の英雄ではありますが、名が売れることが英雄の条件ではなく誰かを救う人が英雄である以上、人が生きるための社会を維持管理し続けている人々は皆英雄の呼び名に値するでしょう。

 マイナスをゼロにしたり大きなプラスを生み出す英雄、輝かしいばかりの天才の活躍には確かに目を奪われます。しかし、日々がマイナスとならないよう必死に社会を保ち続けている様々な人々の努力と献身を無視し無下にするのは、たとえ悪意が無くとも悲しい想像力の欠如だと思う次第です。

 世の中に「何も起きていない」ということは偶然や何も無かったということではなく、何も起きないように努力している人々がいるからです。平穏な日々は有事によってのみ破られるのではなく、そして、人々の努力によって保たれています。何もコロナ禍に限った話でもなく、個別にスポットライトを当てろという話でもなく、人々の日々の努力と献身を「偶然」という言葉で無視するのは止めて欲しいという話です。

 

無名の英雄である「普通の人」の「普通の仕事」

 有事の英雄は分かりやすいものですが、平時の英雄、つまり社会を維持管理している人々の活躍は分かりにくいものです。よって想像力が必要になります。

 例えばコンビニのパン一つ取っても、安全で美味しいパンを人々が食べるためには企画する人、開発する人、営業する人、生産する人くらいまでは簡単に想像がつきますが、その他にも生産設備が止まらないよう日々メンテナンスをする人、異物が混入しないよう工場をピカピカに清掃する人、モノが不足しないようにしっかりと計画を立てる人、時間通りに到着するよう運転する人、車がちゃんと走れるように道を整備する人、とてもとても例を挙げきれないほどの人々が関わっています。

 社会システムは決して安定的なものではありません。むしろ放っておけば簡単に崩壊するほど不安定なシステムと言えます。そのシステム上にいる静かな無名のプロフェッショナル達、何気なく成すべきことを成している「普通の人」の「普通の仕事」という活躍によって社会のシステムは保たれて、世の中は回っています。

 

 人が居なくとも、人の社会は無くとも世界に明日は訪れます。しかし人が生きていける「人の社会」は私たちを含めた誰かの努力によって支えられていることを忘れるべきではありません。華やかな賞賛は無くてもいいでしょう、しかしその存在は認知されるべきです。人々のその献身が無ければ人の社会に明日は訪れないのですから。