ブログやYoutubeなどでアクセス数を考慮するのであればホットな話題を取り扱ったほうがいいですが、ホットな話題は美味しい反面、下手に触れるとやけどをするので、個人的には少し時間が経って冷めてから食べるほうが好みです。
私は猫舌なので。
そんなわけで、少し冷めた話題を取り扱います。
炎上するのは分かるけど
先日行われた内閣改造における対する記者会見で、女性閣僚が5人と過去最多に並ぶ人数であったことへの質問に対して首相が「飽くまでも適材適所」と前置きしつつも女性比率を意識した上で選んでいること、そして「女性としての、女性ならではの」活躍を期待していると述べたことがSNS等の一部で炎上していました。
(記者)
フジテレビ、瀬島です。よろしくお願いします。
人事の女性登用についてお伺いします。党役員では骨格を維持する中で、小渕氏を選対(選挙対策)委員長に起用した理由をどのようにお考えでしょうか。
また、女性閣僚では過去最多に並ぶ5人を起用されましたけれども、自民党の女性議員の数が限られる中で難しい調整もあったかと思うのですが、どういった考えでこれを実現されましたでしょうか。(岸田総理)
まず、小渕選対委員長の任命についてですが、小渕優子さんは、自民党ではこれまで政調会長代理、あるいは選挙対策委員長代行、あるいは組織運動本部長、こうした役職を歴任されてこられました。高い実務能力と、そして選挙対策への知見、こうしたものを培ってこられたと思います。是非、こうした能力や知見を十分いかしていただきたい、こういったことで選挙対策委員長をお願いいたしました。
そして、自民党は、今後10年間で女性議員30パーセントに到達することを目指す、こうした課題を掲げています。女性議員の活躍促進を最重要課題として掲げたところであります。小渕選対委員長には、候補者の発掘あるいはきめ細かい支援など、女性議員3割に向けて、先頭に立って力を振るっていただきたいと思っています。そして、あわせて、選挙の顔の一人としても御活躍いただくことを期待している、こうしたことであります。
そして、女性閣僚を多く登用したことについての御質問でありますが、飽くまでもこうした人事は適材適所であると思っています。そして、我が党の中に女性議員は少ないのではないかという御指摘がありました。今、申したように、より増やしていかなければいけない、こういった問題意識、課題は我々も認識しているわけですが、しかし、現在活躍している女性議員の皆様も、それぞれ豊富な経験を持ち、優秀な人材、たくさんいるのだと思います。今回、そうした方々の中からできるだけ、先ほど申し上げました経済、社会、そして外交・安全保障、この3つの柱を中心に政策を進めていくために御活躍いただける方を選ばせていただいた、こうしたことであります。是非、それぞれの皆様方に、女性としての、女性ならではの感性や、あるいは共感力、こうしたものも十分発揮していただきながら仕事をしていただくことを期待したいと思っています。
以上です。
令和の現代において「女性ならでは」を求めることに批判が行われるのは当然のことだと思います。それはジェンダーフリーの概念に反する古い発想です。
ただ、これに対する安直な批判は、存外に首相の発言以外を刺しかねない部分があると思うため、少し考えを述べていきます。
集団の女性比率を高める目的
昨今では男性ばかりで構成されている集団に対して女性に参入してもらうことが推奨されています。
例えばメーカーの開発現場は男性ばかりのために女性からすれば使い勝手が悪い車や家電が開発されていることから、女性に開発現場へ入ってもらって女性の目線での開発をすることでもっと皆が使いやすい装置や機械を開発できるようにすることが目的です。
政治の世界も同様に、男性ばかりで決めている男性目線の政策をどうにかするために女性比率を高めることが求められています。これらは"男女平等"の文脈で語られる発想です。
ここで求められているのは率直に言えば「女性ならでは」の視点であり、この「女性ならでは」は現状の男性集団が持つ極端な「男性ならでは」を緩和する効果的な薬として機能する極めてポジティブなものです。
ただ、確かにそれはマクロな属性の観点であって、ミクロな個人に対して特定のジェンダーロールを期待することは”ジェンダーフリー”の文脈からすれば不適切です。能力や人格ではなく属性を見ていると個人が感じるのは当然のことであり、だからこそこの発言には批判の声があがるのでしょう。
男女平等は明確なまでにジェンダーを区分してそれぞれのエンパワーメントを高めるための活動であるのに対して、ジェンダーフリーはまさにその「男性だから」「女性だから」を否定しなければ成り立たない概念であり、概念が衝突するのは必然かもしれません。
批判の対象となるもの
首相の「女性ならでは」発言を批判する場合、それは首相に限定された範囲では済まない可能性があります。
まず、女性閣僚を増やすこと、そこで求められているのは必然として現状の「男性らしさ」に満ち溢れた政府を変革するための「女性らしさ」です。おじさんばかりの政治から多様性を持った政治へ変えるため新たに加入する新属性に求められるロールは「男性とは違う”らしさ”を持った人」すなわち「女性らしさ」である必要があります。これは確かにジェンダーフリー的ではありませんが男女平等には資するものです。
極論ですが、その「女性らしさ」を否定するのであれば「性別を考慮せず適材適所で選んだ結果、全員男性になりました」も受け入れる必要があるでしょう。男性の人数が多かろうとも、その否定自体がジェンダーに囚われていることになってしまいます。
また、それは一定の男女比を達成するためのクオータ制やパリテも同時に否定することになりかねません。
さらには、ジェンダーギャップ指数は女性の大臣・議員比率によってほぼ決まりますので、日本のジェンダーギャップ指数のスコアが低いことも批判できなくなります。
もっと直接的に言えば、「女性が活躍できる社会にしよう!」とする前向きな活動すら否定する必要が出てくるかもしれません。それは女性のジェンダーの固定化に繋がりかねないものです。
これらはジェンダーフリー的には妥当なのかもしれませんが、男女平等からすると離れていってしまうような気がします。
結言
男女平等は男女のジェンダーを明確にしているのに対して、ジェンダーフリーはジェンダーロールに縛られないことを良しとする概念のため、どちらも先進的な人権概念ではありますが衝突の余地があります。
ただ、男女平等とジェンダーフリーの競合は、定性的な捉え方ではありますがマクロとミクロの混同が生じているだけだとも思っています。
ミクロな個人個人がジェンダーロールの強制を拒絶するジェンダーフリーの発想であることには何も問題がありませんが、それをもってマクロな男女平等を否定しては逆にジェンダー平等性を確保しようとする社会の動きを阻害しかねません。
なんというか、「合成の誤謬」に陥っていそうです。
現代は過渡期として様々な人権概念が鎬を削る時代であり、最終的にどのような思想がより堅牢な概念として定着するかは分からないため、人々は今後も注視していく必要がありそうです。