以前から頭に残ってはいたのですがどこで読んだのかずっと忘れていた文章を、先日ようやくどの本に書いてあったのか思い出したので、少し長くなってしまいますが引用します。
ハーバード・ロースクールの交渉術のクラスで、中国人の男子学生がアメリカ人の女子学生と交渉の練習をしていた。男子学生は、講師から「あえて強面の交渉相手として交渉するように」と指示されていたため、女子学生を相手に威圧的な調子で交渉を続けた。
終わった後、講師から、今日の出来がどうだったかという講評を受ける。感想を尋ねられた彼が答えた。「申し訳なかった」
「なぜ、申し訳ないと思ったの?」と講師が尋ねる。
「だって、相手チームは女性一人だから」
ざわざわしていた教室が、一瞬でシーンと静まり返る。女性の講師は、それまでとは打って変わってトゲのある調子で彼に尋ねた。
「それ、どういう意味?」
それに対して、男子学生はこう繰り返したのだ。
「だって相手チームは女性で、女性を守ってあげずに攻撃するというのは、やっぱり申し訳なかったと思う」
その瞬間、男子学生に相対していた交渉相手の女子学生の顔が、後ろから見ていてもはっきり分かるくらい真っ赤になった。
「つまり、あなたは、私が『女性』だという理由だけで、私への交渉態度を変えるべきだったっていうの?」
烈火のごとく繰り出される彼女の抗議に、男子学生はおろおろするばかり。教室中の女子学生もみんな彼を非難の目で見ている。それ以降、その男子学生は、交渉術クラスの中で「性差別主義者」というレッテルを貼られてしまった。
中国人学生の言動が悪意に基づくものではないことは、私の感覚では容易に理解できた。ところが、アメリカのリベラルな地域では、こういう「レディ・ファースト」すら女性差別になる。女性は守るべき弱い存在、そう見ること自体が女性差別というのだ。
出典:山口真由(2017), リベラルという病, 新潮社
優遇も差別ではある
アジア地域や欧米の保守的な地域における共通価値観としてのレディ・ファーストや女性への庇護は未だ息づいており、この文で書かれている男子学生は中国人ですが日本人や他の保守的な地域の男性に置き換えても通用する話です。「女性を守ってあげる」などと上から目線で直接的に言及するようなことはあまり紳士的とは言えませんが、女性へ威圧的な態度を取ることへの忌避感を持つ男性は多数居るかと思います。
しかし女性だからと態度を変えるような姿勢は引用元にあるように明確な女性差別だと言えます。先端的なリベラル視点からすれば、『レディ・ファーストを実践する男性』も『レディ・ファーストを求める女性』も等しく性差別主義者です。[性差別主義者]はかなり強いレッテルのため個人的には使わないですが、少なくともリベラル視点からすればそう定義されます。
差異を無視するか、差異を認めるか
優遇も一種の差別ではありますが、ただ、こういった差別を無くせば万事解決かと言えばそうとも言い切れないことが本事例の難しいところです。男女には差異がある以上、必ずどこかしらでの不均衡は生じます。女性へ男性並みの重労働や長時間労働を強いるのは現実的ではありませんし、男性に子供を産むよう求めても物理的に不可能です。
これはなにも男女の差に限らず、そもそも男女で単純化して区分するからややこしい話になるとさえ言えます。人にはそれぞれ何かしらの差異があることは必然であり、まったくもって均質化されていません。性別のカテゴリで二分化すること自体が非現実的な判別方法となります。
世の中には知能に優れた人もいれば身体に優れた人もいます。数学が得意な人もいれば家事が得意な人もいます。そういった差異を無いものとして取り扱うことは必ずどこかしらで軋轢を生じることになり、世の中や人間関係の潤滑を阻害しかねない現実を見ていない所業です。適材適所を考慮せず、勉強が苦手で医学書を読めない人を医者にしたり肉体にハンディキャップを持つ人を厳しい工事現場で働かせることが本当に平等で適切かと言えば、慎重な議論が必要になることでしょう。
また、個々人の差異は個性と強くリンクするものでもあります。人と差異があるからこそ個性です。
差異を無視する社会は必然的に個々人の個性を否定する社会となりかねません。個性を活かせない社会、個性を否定される社会は時に過酷で残酷であり、それは確かにある種の平等ではありますが、それが幸福な社会かと言えば断定的に述べにくいところがあります。
結言
私個人としては、差異があることを前提に差異を認め合い個々人の能力を存分に発揮して幸福の最大化を図れる社会が望ましいと考えていますが、しかしそれは平等からは程遠い社会になるでしょう。個性を認める社会は否応なしに平等から遠ざかります。
その逆として個々人の幸福にフォーカスするのではなく平等な社会を優先する考えがあることも重々承知していますので、どちらの社会がより望ましいかの対立構造ではなく、中道的なバランスをもってどこまでの平等と差異を認めるかを議論したいものです。
余談
一応の補足として、男女平等が進んでいる北欧諸国においても職業分布では明確に男女差が出ています。差異を無視して皆で同じ仕事をするのではなく、それぞれが得意なことを活かして仕事をしている形です。
エビデンスとしては各国の公的な統計サイトを貼るほうが良いでしょうが、さすがに外国語で読みにくいので日本語で解説しているnoteをリンクさせていただきます。