忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

自己紹介の要否とファンの心理

 ふらっと訪れた迷子の方が覗いているのか時々aboutページの閲覧履歴があるため、aboutページに自己紹介を書いてみようと思い付きました。

そもそも著者の「自己」に興味が無かった

 ビックリするくらい自己紹介に書くことが思い付かないです。自己紹介とは一体何をどこまで紹介していいものなのか、皆目見当もつきません。「誰が語ったか」よりも「何を語ったか」を重視したい派の私としては文章書きが何処の誰であろうと関係ないというスタンスのため、著者について語るべきことというものを今まで考えたことが無かったことに思い至りました。気にしてなかったことは書きようがないですよこれは。そもそも本やネットの記事を読んでも著者の紹介や経歴は全然見ていません。それなのになぜ自己紹介を書こうと思ったのか、自分の思考回路が不思議です。

 どこそこの御大学の名誉な教授様というようなご立派な経歴があれば権威主義的に書いてもいいのですが、私はそういう素晴らしい肩書きなんて特に無い何物でもない一般人です。残念ながら権力による暴力的な説得力を出すことはできません、無力です。

 仕方がないので無難なそれっぽいところを書いてみました。aboutページは大喜利的な扱いとして、徐々に戯けた内容に変えていくと思います。真面目な顔して自己紹介することもできない恥ずかしがり屋としてはボケるくらいしかやることが思い付きませんでした。

「自己紹介」の必要性について考える

 そもそも著者の自己紹介はどのくらいの比率の人が見るものなのでしょう。

 私が求めているのはアウトプットされた作品であって、それを誰が作ったかということにはそこまで興味関心を持ったことがありませんでした。ここ最近で唯一著者の自己紹介を見たのは人新世の「資本論」を書いた斎藤幸平さんくらいです。それも「こんなマルキストがまだ存在するとは、どこで学んだんだろう」と関心を持ったからで、著者自身には特に興味を持ちませんでした。

 しかし世の中には著者そのものに興味を持ってファンになる人も居ます。この違いはどういう着眼の違いで、なぜその差が生まれるのか。これをテーマに一本記事を書けそうな気がするのですが、いかんせん興味を持つ人の心理をさっぱり分かっていないため分析しようがありません。どなたかファンの気持ちを教えてください。これが現代文の難問、「この時の作者の気持ちを答えよ」に戸惑うかどうかの差異なんでしょうか・・・いや、多分違いますね。

 ああ、音楽だと少し理解の解像度が上がるかもしれません。私は気に入った曲は延々とリピートして聞きますが、その作者であるミュージシャンは特に追いません。だから良いと思ったミュージシャンの曲も2、3曲しか知らないというのがザラにあります。しかし世の中には好きなミュージシャンの楽曲は全部聞くというようなファンがたくさん居ます。この心理も恐らく著者に興味関心を持つのと同じものなのでしょう。

ファンの心理

 以下、著者のファンになる人の心理に対する曖昧模糊な分析です。本当に分からないのでふわっふわのもこもこな分析です。毛刈り前の羊くらいもこもこです。

 好みの作品を作った作者であれば、好みのものを次々と供給してくれるだろうという期待感があるのでしょうか。そうであれば分かる気がします。面白いものを作った人は次も面白いものを作るだろうと期待することができます。

 もしくは自らの波長に合う人への同気相求なのかもしれません。多くの人は自分を理解してもらえることは嬉しく、理解してくれる人を好むものです。自分が一人で考えていたことを表現してくれる作者に共感を感じてファンになるのでしょうか。この場合、同族嫌悪を持つようなタイプの人や、私のように異なる波長のほうが好きなタイプの人はファンになりにくいのかもしれません。

 駄目です、ふわっふわ過ぎて何も考えがまとまっていません。このテーマはちょっと何らかの熱烈なファンの人から情報収集をした後に再チャレンジします。

余談

 読んだことがある人にしか分からない例ですが、漫画「ハコヅメ」の牧高さんだけは理解し切れないです、なぜそんなに作品のキャラだけでなく作者の司馬遼太郎を愛しているのか。うーん、その心理に興味がある。