忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

遠近感に騙されているのかもしれない

 多くの生物は二つの目を持っています。目の数は生物の進化の歴史で様々な種類が生まれてきましたが、一つでは少なく、三つ以上では余分なため、二つ目の生物が主流となりました。単眼や複眼もありますがまあそれはさておき、目が二つあるのは立体感・遠近感を掴むためです。片目を瞑って見ると分かりやすいですがそれぞれの目で見た情報は若干異なり、これを両眼視差と言うのですが、その二つの像を脳が処理することで立体感・遠近感を感じるようになっています。

 このように三次元での遠近感は両眼視差を脳が処理することで生み出されていますが、絵画や彫刻のような二次元の視覚芸術でも平面上に遠近感を表現することができます。図法はいくつかありますが、まとめて遠近法と呼ばれています。色彩や空気、上下、重畳など遠近感を二次元上で表す方法は様々ありますが、基本的には線や曲線の遠近法がメジャーでしょう。遠くのもののほうが小さく書かれているアレです。

脳の錯覚かもしれない

 世の中にはとても立派な人がたくさんいます。それに比べると己はなんて卑小なんだと嘆く人もいるでしょう。しかしながら、世に居る立派な人が具体的にどこまで立派なのかということは実のところ認識が不正確な場合があります。もちろん身近にいる立派な人は恐らく本当に立派な人でしょう、その挙動や言動、行動を実際に見ているのですから。しかし遠くに居る人はもしかすると思っているよりも立派ではないかもしれません。

 つまり遠近感です。遠くのものがそこそこ大きく見える時、実態はそれよりももっと大きなものだろうと認識するように脳はできています。三次元だろうと二次元だろうと遠近感は視覚情報を処理する脳が生み出していますが、それは恐らく心理面でも同様だということです。遠くに見える大きく立派な人が、実は近づいてみても大きさは変わらず、案外自分と同じような大きさかもしれないのです。

 同様に自分のことを小さく評価しがちであるのも脳の錯覚かもしれません。近くに見えてこの大きさであれば遠くから見たらもっと小さく見えるのだろうな、と勘違いしている可能性があります。

隙間を埋めるのは自分自身の考え方

 遠くの人、それは物理的にでも精神的にでも同様ですが、距離があればあるほど相手についての情報は少なくなります。脳はその不足した情報を補間するために情報の隙間を何かしらで埋めようとします。

 その際に用いられるのは自らの考え方です。当然ですが持っていないものを使うことはできませんので、不足を埋めるのは自分の頭の中にあるものとなります。よって相手の一面、一部の言動を見て、「この人はこうだろう」と考えるのは自分の持っている考え方を埋め込むのと同義です。

 つまり情報が少ない遠くの他人を立派だと思える人は自らの内にもそれに通じる立派なものを持っているということです。錯覚かもしれない相手の立派さはそう考えた人の中から出てきたものなのですから。反対に遠くの他人を貶める人は自らの内にそれと同類の卑しさを持っているのかもしれません。

 「人こそ人の鏡」とは言いますが、他人そのものが鏡なのでは無く、他人を自分の脳がどう認識したかが鏡なのです。善き人には他人が善く見え、悪い人には他人が悪く見えるものです。いえ、もちろん本来の意味である「人の振り見て我が振り直せ」も実に必要な考えではありますけれども。

結言

 自らと他者を比べて、相手は立派で己は小さい存在であると卑下することは内省として必要な場合もありますが、それは時に錯覚を含むものです。自分が想像しているよりも他者が立派ではないことは多々あります。あまり捉われず、近づいて見てみると良いでしょう。案外自分と同じくらいの大きさかもしれませんし、実際に大きく立派な人であれば良い手本となるので儲けものです。

 そして他者が立派であると思う事自体は決して悪いことではなく、むしろ自分の内にも同様に立派なものを持っているということの証明です。他者を評価できる人は評価に値する美徳を己の内にも備えているのです。声高らかに誇るような類のものではありませんが、自らの内で、静かに褒め称えてあげて良いと思います。