忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

一を聞いて十を知る人は素直だが、素直ではない

 素直であることは美徳です。素直な人は自らの誤りや至らないところを謙虚な気持ちで認め、より良くしようと努力することができます。素直な人は他者からの助言や手助けをしっかりと受け取って学ぶことが出来ますし、そういう人には周囲も喜んで手を差し伸べたくなるものです。

 与えられて喜び、与えることを喜びあえる関係性を作ることが出来る、素直であることは人として最高峰の美と言ってもよいかもしれません。

 だからこそ素直であることは決して悪いことではなくむしろ称賛されるべきものなのですが、少しひねくれたことを言うと、一を聞いて十を知る人は純粋に素直な人ではありません。素直ではありますが、素直ではないのです。

疑いや疑問を持つことが必要

 一を聞いて十を知るとは、物事の一部を聞いただけでその全容を理解することができる、聡明で頭脳明晰であることを意味する言葉です。

 素直な人は一を聞いた際にそれを素直に受け止め、受け取った一をしっかりと自らの学びとすることができます。これは得難い資質です、多くの人は一を聞いたとしても半分も身に付かないものです。

 しかし一を聞いて十を知る人は受け取った一をそのまま素直には受け取りません。自らで分解し、拡張し、発展させるからこそ一から十を知ることができます。

 例えば何らかの仕事を新しい管理方法に変えるようマネージャーから指示されたとします。多くの人はそれに頑張って適応しようとしますが、一部はマネージャーの言うことを聞かずに上手く移行することができません。その点素直な人であればマネージャーの指示通り、新しい管理方法へ完璧に適応することができるでしょう。

 しかしながら、一を聞いて十を知る人はその管理方法を素直に受け止めず一度疑いや疑問を持ちます。その管理方法の目的は何か、本当にそれが最適な方法か、別の方法があるのではないか、他部門や他社との連携はどうなるか。そういった様々なことに思いを巡らせます。

 このような思考の展開をせずにただ一を受け止めるだけでは一から十へ発展させることはできません。このような思考を行うことで、新しい管理方法が各所と連携を取るために必要な措置であることであったり、今後の新しい業務へ対応するためのものであったり、もしくはさらに良い方法を思い付いたりと、言われてもいないことを自ら理解する、つまり一を聞いて十を知ることができるようになるのです。

両面を併せ持つ必要がある

 もちろんこのような思考展開は意識的に行わなければ身に付かないものですし、最初のうちは誤った思考へ進んでしまうこともあります。そうならないため、十を知ったと傲慢に思い込まず謙虚に確認する必要があります。

 そう、一を聞いて十を知る人は質問上手でもあるのです。何かを教わったり指示された際に、自らの内で十に広げた後にそれが正しいかを質問して確認します。質問による確認をしないと独りよがりな想像をしてしまったり誤ったことを思い込んでしまったりするので注意です。思ったことを素直に質問し、誤っていれば素直に受け入れて修正して次はもっと正確に予測できるようにする、それを繰り返すことで一が二に、三に、そして十へと広がっていくのです。

 つまり一を受け取った時は素直でない気持ちで疑問を持ち、素直に質問し、誤りは素直に受け入れる。一を聞いて十を知るためにはそういった二面性が必要になります。

 疑いや疑問という表現は少し悪い言い方かもしれません。前向きな表現で言えば好奇心です。聡明で頭脳明晰な人は必ず好奇心の強い人だというのは身近にいる凄い人を見れば納得してもらえるかと思います。

一を聞いて十を知る必要は無いけども

 とはいえ一を聞いて十を知るに至るほど聡明な人は実に稀です。

 この言葉は孔子の論語において語られた言葉です。孔子が弟子の一人である子貢に「君と顔回はどちらが優れていると思う?」と聞いたところ、子貢は「どうして回と比べられるでしょうか、彼は一を聞いて十を知ることが出来る、私はようやく二を知る程度です」と答え、孔子も「そうだね、私も同様だ、回には及ばないよ」と語りました。

 孔子ですら一を聞いて十を知ることは出来ないと言っているのですから、一を聞いて十を知ることの難しさは語るまでも無いでしょう。まず到底辿り着けるものではありません。

 とはいえもしかしたら二を知ることは出来るようになるかもしれません。そのためには素直であり、そして素直でない必要があります。