忘れん坊の外部記憶域

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多数決に関する2つの考え方~対立と協力

「僕は自民党に投票していないので今の政治に責任は無い、僕の選んだ代表じゃない」

 先日、後輩と話していて言われた言葉です。まあ言いたいことは分かるのですが、これはちょっと民主主義や多数決の考え方として望ましくありません。

 今回は多数決の考え方について考察していきます。

 

多数決は対決ではなく代表の選出であるべき

 特に政治家の方に多いのですが、選挙や多数決を闘争だと考えている方がいます。しかしながらこの考え方は集団の信頼関係を損ないかねません。対立した意見をぶつけ合うものだと多数決を捉えることは望ましくないのです。

 多数決を対決のイメージだとした場合は次のような図になります。それぞれの意見を別々の集合であるとみなして、それらの大小を比較することが多数決であると考えている状態です。

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 このような対立視点で多数決を見てしまうと多数決後の団結が起こり得ず、別々の集団での勝敗が決したのだから勝った集団のウィナーテイクオール(勝者総取り)と考えることになります。少数派は自分たちの意見が通らなかったとして多数派への協力を拒む理由になりますし、多数派は少数派の意見を無視することになりかねません。

 

 しかし忘れてはいけないことがあります。多数決とはある集団において意思決定を図る際に多数派の意見を採用する方法のことであり、そもそも別々の集団が意見をぶつけ合うようなものではないのです。

 本来的な多数決は次のようなイメージ図です。

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 意見Aも意見Bも同じ集合の部分集合かつ元だという状態で、代表意見や代表者を選出するのが多数決の本来目的です。

 重要なのは外枠にある黒線、同じ集合であるという紐帯です。多数決を対立軸で考えている人には見えていないこの紐帯こそが多数決を建設的な行為に昇華させる唯一の絆であり、これを無視しては多数決など成り立ちません。

 多数派の横暴と少数派の不協力は多数決を別々の集合による対立軸だと考えることから発生します。同じ集合、つまり同じ集団の仲間であるという紐帯がしっかりとしていれば「少数派の尊重をしなければいけない」というようなことを考える必要だってありません。少数派も多数派も同じ集団の仲間でありそもそも少数派を蔑ろにすることはあり得ないのであって、いちいち規範として定めるまでもないのです。

 「多数決は闘争である」と考えることは集団の紐帯を引き千切り社会集団に分断を招く望ましくない考え方だということを、特に多数派の政治家の方々にはよくよく留意願いたいものです。

 

ある事例

 情報ソースを忘れてしまったので記憶頼りになるのですが、確かフランスでのある住民投票の話です。

 その地域では原発建設に賛成か反対かの住民投票が行われた結果、賛成多数ということで原発を建設することになりました。反対派は多数決に従って建設を受け入れ、その代わりに建設場所を賛成派の土地にするよう求めました。賛成派はその意見を承知して、双方納得の上で原発の建設が始まった、という話です。

 少数派は多数派の意見を受け入れ、多数派は少数派の意見を取り入れる。代表意見として決まった多数派の意見に皆が従い、しかし少数派が蔑ろにされるわけでもなく意見が反映される。全体としての紐帯は維持されて、団結して物事が進む。

 これこそが民主主義における多数決としてあるべき姿だと考えます。

 

 子どもの頃、学校でも何らかの選挙があったと思います。

 例えば3年B組でクラス委員長を決める選挙があって、立候補が2人いたとしましょう。多数決によって片方が選ばれますが、では選ばれなかった側が団結を拒み別の集団として3年B-1組を作る、なんてことには当然ならず、多数派の意見に従うでしょう。また選ばれた側も選ばれなかった側をクラスから追放したり無視するようなことはせず、選ばれなかった側の意見だって取り入れます。

 子どもでも出来るそんなことが大人になったら出来なくなるのは、なんとも不思議なことです。

 

結言

新約聖書「マルコによる福音書」3章24-25節
国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。

 かつてエイブラハム・リンカーンが演説で引用したことで有名になった言葉です。多数決は内輪で争うことが目的ではなく集団の進むべき方向を決めるものであり、多数決をする以上、意見が異なっていても同じ集団であることを忘れてはいけません。同じ集団であることを拒絶するのであれば、選択すべきは対立的多数決ではなく集団からの独立でしょう。

 社会に分断があるから意見が割れるのではなく、意見が割れた時に同じ集団であることを忘れた時、そこに分断が生まれるのです

 

 最初にあげた「僕は自民党に投票していないので今の政治に責任は無い、僕の選んだ代表じゃない」という言葉は多数決を対立構造で捉えていることを示唆しています。

 しかし多数派は集団の代表になっただけであり、全体の意見をくみ取ることは多数派の義務です。その義務を果たさせるためには前述した事例のように少数派も協力をする必要があります。

 多数決による対立を肯定することは多数派が専制君主のように振舞うことを追認しているようなものであり、「僕が選んだ代表ではないから責任は無い」というのは協力の放棄です。私はそれこそ避けるべきだと思います。嫌でも、納得しがたくても、協力的多数決を保つためには「僕たちの選んだ代表」であることを忘れてはいけないのです。その参政意識と協力こそが多数派の横暴を抑える紐帯となり得ます。