忘れん坊の外部記憶域

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同調圧力の功罪と折衷案

 世間には「同調圧力が辛い」「同調圧力とか無くなればいい」というような風潮が一部にあるかと思います。それに対する反対意見、ではなく、解決方法を模索するための折衷案を考えます。

 

(同調圧力について考察した過去記事)

 

同調圧力のイメージ共有

 まずは同調圧力(ピアプレッシャー)について定義とイメージを共有しましょう。

 斉一性の原理や全会一致の幻想、沈黙の螺旋や多数決における数の暴力といった近傍の概念が複数あり、その中で同調圧力を具体的に定義するのはややこしいのですが、ここでは広く大衆的に用いられている「あるグループにおける意思決定や合意形成で、暗黙の了解として多数派の意見に合わせるよう少数派を誘導・強要する力」とします。

 そのイメージは激流の川のようなものだと考えます。ある個人やグループの少数派が向かいたい方向があって、川の流れがちょうどそちらを向いていればむしろ楽に辿り着ける。しかし向かいたい先がそうでない場合は多数派の激流に逆らって泳がなければいけないので、押し流されたり物凄い抵抗を感じる。そのようなイメージです。

 

同調圧力の功罪

 物凄い抵抗を感じている人からすれば「同調圧力なんか無くなればいい」と思うのは自然なことです。なにせその人にとって同調圧力は進行方向に立ちはだかる障害以外のなにものでもないのですから。

 しかしながら、「同調圧力を完全に無くそう」というのは非現実的な理想だと考えます。何故ならば同調圧力には集団を生成し、その紐帯を維持するという機能があるからです。

 同調圧力は人間に限らず社会的生物全てに備わっている機能です。猿やライオンであればボスに従わなければならないという同調圧力、アリや蜂であれば巣に食料を持ち帰って来なければならないというような同調圧力が存在します。このような同調圧力が無ければ群れは維持機能を失い破綻してしまいます。

 もちろん同調圧力を持たない生物同士でも個体間であれば一定の協業をすることはできます。しかしブレーメンの音楽隊のように多数で集まってチームを組むことは現実には難しいものです。同調圧力は集団を組んでいると自然発生するわけではなく、順番が逆で、同調圧力を機能として持っている生物だから集団を組んで維持することが出来ているというものだからです。「あいつと俺は面識がないけど、同じグループの仲間だから協力してやるか」ということを同調圧力によって暗黙のうちに行えるからこそ社会的生物は社会を構築することができます。

 また同調圧力が全て悪いかと言えばそうではありません。例えば「いじめはよくありません」「法律は守らなければなりません」「人に害を与えてはいけません」といった規範意識も先に定義した広義の同調圧力に該当します。同調圧力はネガティブな事柄によく用いられる言葉ですが、ポジティブな同調圧力も存在するわけです。そういったポジティブな同調圧力までも無視して「そんなもの知ったことか、俺は俺のやりたいようにやるぜ」という考えが多数派になった場合、やはり社会を維持することは出来ないでしょう。

 よって同調圧力が無い環境に身を置くのであれば社会的生物であることを捨てなければなりません。たとえ同調圧力を嫌う人々で集団を作ったとしても今度は「同調圧力を発してはいけない」という同調圧力が発生してしまいますので、もう一人になるしかないのです。無人島のような環境で人間が一人、非社会的に生きるというのは・・・相当な才能と技量が無いと難しいのではないでしょうか。

 

社会的に目指すべき地点

 同調圧力は社会的生物として無くてはならない功の部分を持っていることから、完全に無くすことは現実的ではありません。

 しかしそれが過剰となり集団を構成する個人へ過剰な負担を掛けていることも事実であり、見直されなければならないでしょう。たとえ肯定的側面があり必要不可欠なものだとしても、それが過剰であってもいいという理由にはならないからです。

 だからこそ、「同調圧力は無くなればいい」というような極論をもって戦うのはあまり望ましくないと考えます。「同調圧力は悪だから消し去らなければならない」とやってしまうと、その利得部分である社会の維持機能までも失ってしまう危険がありますし、「いや、同調圧力は必要なんだ」という意見を持つ人に強い反発心を与えてしまい、0か1かで意見が衝突して双方が引けなくなってしまうからです。

 要は集団を維持できる程度の同調圧力があれば充分なのであり、「必要なんだから我慢しろ」でも「辛いから全部無くせ」でもない中間地点、「このくらいまでなら許容できるよね」という地点を模索するような働きかけをすることが望ましいと考えます。それであれば同調圧力が辛い人の負担を減らすことに繋がりますし、同調圧力が必要だと考えている人も納得して協力してくれることでしょう。

 

個人での対策

 とはいえ大河の激流を個人がどうこうできるものでもありませんし、社会の変化は鈍重なものであり現時点で同調圧力に苦しむ人を即座に救うことはできません。

 よって個人は個人としてまた別の方策が必要になるかと思います。個人が取れることには限りがありそれぞれの都合もありますので一概に対策を取ることは難しいですが、いくつか考えてみましょう。

 例えば川は一本しか無いわけではありませんので、自分の向かっている方向に合った川に入るというのはどうでしょう。そうすればむしろ流れに乗って目的地へ向かいやすくなると思います。

 そもそも常には川に入らないという手もあります。行きたい方向にちょうど向きが合っている川だけを選んで入り、それ以外の時は川から出て自分の足で歩いたほうが余計な体力を消耗しないで済むでしょう。

 船や橋を造るというのも良いかもしれません。そうすれば激流の抵抗を体に感じず悠々自適に川を越えることができます。

 いっそ目的地を変えてしまうという手もありますね。川の向かう先を目的地だと考えを変えれば、楽に生きることができそうです。

 

 抵抗を受けつつ藻掻きながら進むというのはとても大変なことです。木こりのジレンマと同様に、川を選ぶにせよ船を造るにせよ考え事をするにせよ、まずはひとまず川から出ることが必要だと、そう考えます。

 

 

 

偏見を含む私見

 男女で区分するのも正直なところ意味が無いのですが、同調圧力の感じ方や対処法は男女で多少異なるとも思うのです。

 この先は強い偏見を含みますのであまり参考にしないでもらいたいのですが、例えば小学校の子どもを例にすると、男の子は目的に沿ったピアグループを組むことが多いじゃないですか。「昼休みにサッカーやろうぜ!」って時はサッカーをやりたい子だけが集まって、バスケをしたい子はまた別のピアグループを組む。同じ目的を持って集まっているのでそこに抵抗的な同調圧力はほとんど発生しません。男社会は同調圧力よりも権威勾配による暴政や義務と責任に対する社会的圧力のほうが強い印象です。

 女の子はどちらかというとピアグループを組んでから目的を決めることが多いので、その目的に個人の気持ちが合っていない場合があり、しかしピアグループで目的に向かうことはすでに決まっているために同調圧力が発生する、というような理屈だと思うのです。

 「じゃあどうすればいいのさ」と問われると良い答えが浮かばないのですが・・・同調圧力の功罪と同様、ピアグループを組むことにも安心感や効率性の改善など利得が存在しますので、ただただグループに入らなければいいとも言えません。

 結局は凡庸な意見ではありますが、過度な同調圧力を受けず自分の意思が尊重されるような居心地の良いグループに属する、としか言えないのかもしれません。