梅雨入りしてから急に寒くなりましたね、不思議です。雲があるから当然なのですけど。
私は季節の変わり目には150%くらいの確率で風邪を引きます。1回は確定で、運が悪いと2回、よって150%です。
風邪を引くことを確率がなんたらとか運がどうこうだとか言っている時点でおかしな話ですが、私にとって季節の変わり目というのは運否天賦なのです。
衣替えに無頓着
なぜ季節の変わり目が運否天賦なのか。それは単純な理由で、私が気候や気温に合わせて服装を変えないからです。何を言っているんでしょうねこいつは。
恐らくですけど世間一般の方々はこんな思考をしていると思います。
「ああ、今日は雨か。じゃあ寒くなりそうだから上着を一枚羽織っておくか」
「そろそろ暑くなる季節だから半袖の服を出しておきましょう」
「今日は25℃まで上がるみたいだし、薄着にしよう」
私の場合、部屋着から外着に着替えて、家から出て初めて気温や気象に気が付きます。
「さて今日も行くか。ん?今日はなんだか寒いな」
このタイミングではもはや着替える時間など無く、おお寒い寒いとぼやきながらそのまま外出することになります。
体毛を失って体温調節を衣服に頼っている人類が当然行うべき思考である天気や気温に合わせて着る服を変えることがどうにも出来ないのです。
これを一言で表すのであれば、馬鹿と言います。石器時代の人類だって毛皮の枚数を変えるくらいのことは出来ていたというのに。
普通は先を予測して先手を打つ、もしくは現状に合わせて変えるようなフィードフォワードでコントロールするもののはずなんですよね、衣服というものは。
それなのに何故か私は「昨日は寒かったから今日は長袖を着るか」というように過去の情報から行動を変えるフィードバックで衣服を選んでいます。まあ、確かに一応制御ループは働いていますよ、ええ。しかしフィードバックループが常に有効かと言われればそうではないのです、特に衣服に関しては。
運良く温かい日が続いてくれればこのフィードバック制御が機能するのですが、運悪く三寒四温のような気候が続くと気温と衣服が合わず容易に体調を崩します。天気予報という人類の叡智を使わず季節の変わり目を運否天賦だと思っている時点でやはりただの馬鹿ですね。
記事毎の温度が違うのも多分根源は一緒
ブログも同じで、記事毎の温度にとても無頓着です。真面目風な記事を書いたり、かと思えば急に不真面目な記事を書いたり、まったくもって温度と傾向に一貫性がありません。
もうちょっとこう世間一般では統一感的なものを考えて次に書く記事のことを考えるのでしょうが、そういうフィードフォワードな思考をつい避けてしまうのですよね。先手を打って予測するような行動様式・思考形態が根本的に好みではないのだと思います。
もっと言えば、シーケンシャルな状態が苦手なんです。
シーケンス制御と個人的な好み
シーケンスとは『あらかじめ決められた順序で処理を行うこと』を意味する、制御工学やプログラミングで用いられることの多い言葉です。
私たちが使っている機械の多くはシーケンス制御をしています。このボタンを押されたらこのモーターとタイマーが動き出して、一定の時間が経過したらモーターを止める、というように、事前に必要な順序が規定されており、その通りに動かすことをシーケンス制御と言います。
このようなシーケンシャルな状態が実に苦手なのです。事前に先を予測して必要な行動を組んでおくということは、なんというか、こう、先が見えていて面白くないじゃないですか。それよりも降って湧いてきたトラブルや外乱に対して如何に適切な処置を施すか、このピンチを如何にして乗り越えるか、というようなちょっとしたワクワク感があったほうが日々を楽しめるのではないかと思うわけです。
もちろん仕事では先を予測して事前に手を打つ程度のことはやりますし、そもそも設計屋なのでこういうシーケンシャルなことを考えるのが仕事なのですが、日常生活までそんなきっちりかっちりと決めて行動するのはモヤモヤするのです。むしろそういうのは仕事でたくさんやってるから充分です。普段はもっと気楽にその場しのぎの弥縫策を駆使するような日常が良いのです。
ああ、駄目だ、書けば書くほど馬鹿が露呈する。そろそろ止めておきましょう。
馬鹿は風邪を引かないはずなのに・・・不思議ですね。
余談
少なくとも私の身近には一人もいませんでしたけど、衣替えが下手な人、一人くらい同意してくれる人がいないかな、なんて。
(体調を崩しやすくする第二の刺客)