忘れん坊の外部記憶域

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若者世代は対立を好まない~与党への怒りが世代により異なるのは何故か

 今回は普段の論調とは少し異なり、政治的にあまり中立ではない考察を述べてみたいと思います。若者世代と年配世代に分けて世代に関する考察を述べますが、決して特定の世代を貶めたりその世代に属する方々をレッテル貼りして決め付けたいわけではないことをご了解願います。若者であっても違う意見を持つ方はいるでしょうし年配の方であっても同様でしょう。あくまで一つの切り口として、世代という分類を用いて傾向を検討します。

 テーマは『与党への怒りが世代により異なるのは何故か』です。

 

世代による差異が見られる

 具体的な統計データが有るわけではなく狭い観測範囲ではありますが、与党である自民党、特に安倍元総理に対しての肯定・否定度合いは世代による温度差があるように感じています。若年層はそこまで安倍元総理に対して否定的ではなく、年配の方々はどちらかというと否定的な意見を持つ方が多いのではないでしょうか。これは過去の世代別自民党投票率が傍証になり得るかと思います。だから良い悪い、ということではなく、あくまで傾向の話です。

 不正や疑惑、実績や成果、善政や失政に対する個別の事柄にはそれぞれの個人が異なる意見を持ち合わせていると思いますが、それは個人の支持・不支持です。世代による傾向に差異が出るのはそういった個々の事例ではなく、なにか別の理由があると考えます。

 

若者からすれば、対立するのは「ダサい」

 傾向を説明するための理由はいくつか考えられますが、対立することへの忌避感の違いが差異を象徴的に説明できるかと思っています。

 かつての学生運動を代表に、年配の方々は権力や団体、組織や社会といった数多の集団が対立する環境下で育ちました。それは戦後の混乱期を抜けてしかし未だ不足の多い世界、社会が流動的でそれぞれの利得を獲得するために競争が行われていた時代です。行動しなければ流されてしまう、しかし行動が結果に繋がることも期待できた開拓期と言えます。

 反面、現代の若者はバブル崩壊という流動期の頂点を終えて固定化された時代に育ってきています。行動せずとも不足は無く、利得は概ね分配され終えていて、目に見えて大きな対立構造は存在せず、不変ではなくむしろ退廃的な、広がるのではなく徐々に削られていくような世界です。

 それぞれの世代の考え方は生きてきた時代による影響を強く受けます。そのため、年配の方々は変化の過程をよく知っていることから対立を当然のものとして受け入れており、対して若者は変化の結果を熟知していることから対立を望ましいものとは考えていません。

 これは現代の若者が無気力であったり熱意が無いからではありません。大人たちによる悲観的な社会分析を見て、また失われた数十年と呼ばれる日本を見て、そして他でもない大人たち自身が対立して争っても良い結果にはならなかったと言動で教えているのですから、「過去何十年も対立してきたけど、その結果がこの有様だと大人が言うなら、同じ轍は踏みたくないな」と感じるのは何も不思議なことではなく、熱意を対立以外に振り分けるのはむしろ自然なことではないでしょうか。

 一部若者の中にも年配の方々と同様に対立路線で戦おうとする人々はいますが、総じてそういった人々に対して若者は冷ややかな視線を向けています。過去に上手くいかなかった方法を取ることなんて若者からすれば勉強不足でダサいことだからです。

 かつての対立によるWinner-take-all(勝者総取り)が失敗だったのだと大人たち自身が語っている以上、同じ轍を踏まないように別の方向性であるWin-Win(双方の利益)の関係性を若者が模索するのは当然です。だからこそ若者は対立による獲得を忌避し、調和による平和的分配を優先する傾向を持つのだと考えます。

 

与党や安倍元総理を積極支持しているわけではない

 対立を価値あるものとしない若者からすれば、与党や権力者と対立することもあまり意味を持ちません。それは若者世代の野党支持率が他世代に比べて低いことによって示されていると考えます。彼らは与党や権力者を積極的に支持しているのではなく、野党の対立する行動自体に不支持を示していると言えるでしょう。

 固定化された社会や環境にいる人間は、教条主義的、悪く言えば官僚的に変化します。つまり前例を重視し、成功を尊ぶのではなく失敗を恐れるようになります。

 そのため、若者からすれば野党の行動は「対立したって良い結果にはならないことは歴史が証明している。そんな暇があるなら建設的な意見を言えばいいじゃないか」と見えるのだと考えます。

 

善悪ではなく、択一でもない

 度々となりますが、これらの差異は善悪で分類するものではなく時代性による差異というだけです。拡大の時代では対立によって『敵』の資源を奪い自らの集団を大きくすることが普通であり、縮小の時代では目減りする資源を浪費しないためにも『敵』と争っている場合ではないので調和を目指すのが普通である、だから対立への忌避感に違いが生じている、ただそれだけの話です。

 しかしながら、違いがあるからといってそれぞれが別々に行動していればいいかと言えばそうではありません。それでは世代間闘争がただ激化するばかりですし、何よりも発展性がありません。

 善悪ではなく要不要で考えたとすれば、理想による対立と調和による分配はどちらも必要です。物事を活発に動かすためには対立してでも理想に邁進する力が必要ですので、それを捨て去る必要はありません。しかしそれだけでは世界を前に進ませることができないことは歴史が証明しています。では現実的に調和だけを進めればいいかと言えば、それではいずれは縮小していき袋小路に辿り着くことでしょう。

 よって必要なのは対立と調和、理想と現実を擦り合わせる妥協のアプローチです。「理想のために対立する気概がない」「現実を見ていない」というような言い争いをするのではなく、それぞれの持ち味を活かし、理想を推進力に、しかし手法は現実的に、どちらかという択一問題ではなく組み合わせて用いることこそが現在の閉塞的な状況を打破する力になるのであり、これからの時代にはそういった考え方が必要になると考えます。