忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

穏健派の言い分

 

 暴力の是非に関して。

 

暴力の応報

 時代や教育の差異だとは思いますが、私は基本的に暴力反対派です。暴力は物事を容易に変革できる反面、副作用が大きいため控えた方がいいと思っています。

 たしかに階級闘争的な発想において、弱者にとって暴力は有益な武器です。囲んで棒で叩けば弱者達でも強者を打ち倒せます。

 しかし同手法で強者達に連帯されると弱者達は為す術が無くなります。そして「こちらの暴力は許されるがあちらの暴力は許されない」なんてダブルスタンダードは通りません。結果、自らの暴力を許容するならば他者による応報も許容する他なくなります。

 つまり暴力での変革は弱者に有用と思えるものの、長い目で見れば不利な方法です。そうならないためには一律で暴力をする他ありません。

 

暴力の果て

 近頃は人々のお行儀が良くなったので何かしらの問題を暴力的な方法で解決しようとする人は減りつつありますが、それでもまだまだ世の中には暴力的な解決方法を嗜好する人が存在します。問題を引き起こしている事象を「ぶっ壊す」「引き摺り下ろす」「解体する」そういった手法を是とする人々です。

 

 では、その先は?

 

 そうやって暴力的に問題事象を消し去った結果どうなるかを構造的に無視してしまうことが暴力による変革の最大の問題だと思っています。

 変革で必要なのはその後です。その変革によって何がどう変わるかを語らなければ人々の同意は得られません。

 しかし暴力的な方法は攻撃の結果それが無くなることでどのような利得が得られてどのような不備が生じるのか、代替案や改善策は何があるのか、そういったことを考える必要がありません。暴力はシュプレヒコールのスローガンとしてそれだけで完結できる程度に簡単で単純なものであり、その反面人の考える力を奪うためです。暴力的な方法は思考を許容しません。むしろ何も考えないことこそを強要します。

 そして現実において事象と問題はイコールではなく、悪い事象を攻撃して排除したからといって問題が解決するとは限りません。変革のその後がどうなるかは運否天賦です。

 つまり構造的に変革の手法として暴力はギャンブル性が高いと言えます。運良く攻撃対象が無くなることで万事宜しくなることもあれば、集団の致命的な崩壊に至ることすらあり得るものです。

 それは人々の将来に対して無責任ではないかと私は考えます。

 

 そもそも悪い事象をとにかく暴力で消してしまおうと安易に考えるのは、臭いものに蓋をすることと同じだとすら言えます。結局はそれが見えないようにしたいという本能的な願望に過ぎず、現実にどんな事象が起きていて、それがどのような問題を引き起こしていて、どうすればその問題を解決できるか、そういった複雑な現実から目を背けて思考停止しているに過ぎないものです。

 もちろん考えた結果、全ての損得を天秤に乗せて功罪を計った結果、暴力的手法しか残らないのであればそれもやむを得ないでしょう。

 しかしそれは最後の手段として選択すべきものであり、最初から安易に選択すべきではありません。

 

結言

 暴力的な方法は簡単で、短期的には効果的です。

 そのためスローガンとしては非常に有効だと言えます。

 しかしその方法に乗っていいかどうかは一度立ち止まり熟考が必要です。

 変革に必要なのはその後であり、その暴力性がその後をより良くするかは分からないのですから。それよりは最初から熟考して”その後が良くなる方法”を選び取ったほうが良いでしょう。